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■連載「文学のはざま2」番外編■
韓国旅行のなかであれこれ考えてみた文学随想 村田 豪 夏休みを利用して、先日、韓国その首都ソウルに旅行した。 せっかくの機会なので、わたしは、旅行にでるまえから事前に何か「韓国文学」を読んで、韓国文化への理解のたしに、またそれが旅の情緒のいろどりになるか、などと考えていた。そしてこの「文学のはざま」の題材として、今回は「韓国文学」を対象にするのがちょうどいいだろう、ともくろんでいたのだった……。 が、しかしいくつかの理由によりそんな準備が十分にはたせなかった。それで、いつもの「文学批評」みたいなには仕上げられそうになく、ちゃんとしたものを書くのはあきらめなくてはならない。ということで、今回は「番外編」として、韓国旅行の印象をまじえながら、恐縮ではあるが、ゆるくぬるい「文学エッセイ」みたいなものでお茶をにごしたいと思う。 **************************** 七月に朝鮮半島に大雨をふらせ、とくに今年、北朝鮮ではおおきな洪水の被害をもたらした半島の梅雨がようやくあけると、一転、八月の韓国はかんかん照りになっていた。日本よりも緯度が高く湿度も低めなので、韓国の夏は相対的にすごしやすいときいていたが、実際にソウルに入ってみると、この時期、日本での厳しい暑さとほとんど変わらないことに気づく。実はこのソウルでの強い日差しにやられて、帰国後、熱中症もどきの熱病をわずらった。いいわけになるが、それで一週間も寝こんで、原稿を書くのに必要な本がまったく読めなかったのだ。 それはさておき、宿泊のために到着したホテルは、三流の安ホテルだった。ミョンドン(明洞)やインサドン(仁寺洞)といった繁華街から、徒歩10分から15分ほどの少し離れた場所に位置しているのはわかっていたが、実際行ってみると、なんとまわりは電気工具・工事用具・機械部品・資材などをあつかう商店が百数十軒とのきをつらねる界隈だった。なんとなく道路も油にまみれたような感じで、お世辞にも居心地よい場所ではなかった。 つづいてホテルにチェックインしてみると、今度はドアの鍵がなかなか開かなかったり、トイレの水が流れにくかったり、シャワーのホースが寸足らずで壁のフックに届かなかったり、何かと細かな不便にであうのだった。しかしそういうことは、旅行では、まあ珍しいことでもないだろう。それよりもわたしには、ひとつ気に入ったことがあった。それは、国家的プロジェクトとして復元されたチョンゲチョン(清渓川)が、ホテルの真ん前にあったことだ(残念ながら部屋は反対側で、窓から川を眺める幸運までは恵まれなかったが)。 チョンゲチョン(清渓川)は、ソウルのチョンノ(鐘路)などの中心地つらぬくように東西数キロにわたって流れる川だ。都市河川として古くからさまざまに活用されていたが、1960年代に都市交通整備のために、完全に蓋をして上に道路がつくられ、ずっと暗渠になっていた。それを2000年代になってソウル景観改善のシンボルにしようと、高架道路もろとも取りのぞく大々的な復元工事がおこなわれ、昨年2005年にようやく新しい姿でお披露目されたのだ。川の脇には現代的な遊歩道がもうけられ、すでに新しいソウルの名所と化している。 ところで、元のチョンゲチョンは、どんなものだったのだろうか。たとえばパク・テウォン(朴泰遠:1909~86)の小説『川辺の風景』(1938年)では、日帝植民地支配下の1930年代のソウル(当時は京城)の庶民には欠くことのできない生活空間として、チョンゲチョンとその「川辺の風景」は生き生きと描かれている。そこでは、女たち(オモニ、オンマ)が集まって、やかましいぐらいのおしゃべりをまじえながら洗濯をするのが日常だった。ある時期から川床を仕切る業者が入りこみ、洗濯場をもうけて使用料をとるようになっていたという。 小説では、また、定職もなくぶらぶらしている若い衆が、川原で賭け双六に熱中していたり、町の人士が川近くのカフェーで府会議員選挙のための接待をしたり、小僧が店の主人のお使いをはたすべく橋を駆け渡り、キーセン(妓生)が人力車にゆられ通り過ぎていく、そんなさまが描かれている。去年翻訳出版された『川辺の風景』(作品社)には、小説よりはるか以前1890年代ののどかな洗濯風景の写真や、まさに1930年代の女たちが競い合って洗濯するような写真も掲載されていて、日帝強占下での朝鮮民衆の生活の一端がうかがわれる。 さて復元されたその川を、ホテルをでて実際に見にいくのだが、しかし、というか当然というか、昔の洗濯風景まで再現されているわけではない。現代の都市環境学的な配慮があちこちにほどこされ、「市民の憩いの場」というにふさわしい遊歩道では、親子連れや中高生たち、カップルらが、猛烈な暑さをしのぐのにうってつけといわんばかりに川べりに座り込み、川面をながめ、また時には大胆に水遊びをしている。部外者である観光客のわたしからは、みんな一様に楽しげで、自分の家の庭みたいにくつろいでいるように見えた。 あとで、市内観光ツアーで引率してくれたガイドのイさん(下の名前を忘れた)に、かつての「洗濯場」のことを尋ねると、知識としては当然知っているようだった。しかし必ずしもそういう感慨が必要とされているのではなさそうだった。むしろ愛すべきソウルの景観を取り戻す国民的事業として、いかに工事が大規模で(川の水はわざわざ地下水道をつくって漢江から引き入れている)、いかに金がかかったのか(日本円で確か何百億だったとか)、という話題のほうが熱をおびるのだった。 現在のチョンゲチョンを見て「復元したというには、すこし小綺麗すぎるのでは?」というような感想など、かつて植民地支配した国の末裔である日本国民のわたしが、口にする必要もないことであって、そんな手前勝手な「歴史意識」をいだくのは、それこそ一種の「日帝臣民のメンタリティ」に他ならないのかもしれず、だから観光客らしくおとなしく、整備された川辺で記念写真をとってもらったりしたのだった。 でも気づくとやはり、わたしの関心はそういうことをめぐってしまう。日韓併合の直前にソウルに生まれた『川辺の風景』の作者パク・テウォンは、1930年代に日本留学し、プロレタリア文学・新感覚派などが隆盛をきわめた東京文壇の影響を強く受けて、文体や表現技巧における実験的な作品を試み、当時の朝鮮文学の水準を高めたといわれるモダニズム文学団体「九人会」にも名を連ねた。庶民生活を的確なリアリズムでとらえた『川辺の風景』は、その後の作品で、わたしはその一作しか読んでいないのだが、作家の創作傾向の変化をイメージすると、なんとなく横光利一を連想したのだった。 しかし、日本敗戦による1945年の解放後、パク・テウォンは左翼系の「朝鮮文学同盟」に参加、さらに朝鮮戦争中に北へ渡り、そこで日清戦争のきっかけとなった「甲午農民戦争」(日本では「東学党の乱」といわれてきた)を題材にした歴史小説『甲午農民戦争』(1977~86)を書いている。つまり彼は「共和国の作家」としても活躍したわけだから、日中戦争・太平洋戦争を通じて戦争協力者になり、戦後まもなく死んでしまった横光などとは、較べるべくもないかもしれない。 ところでわたしが本稿で、いつものような文学批評的な作業をなしえなかった理由には、体調をくずしたため準備の時間が足りなかったというだけでない別のものがあることを、言っておきたい。実は、安易に「韓国文学」について何か書こうか、など考えたこと自体が、あまりに浅はかだったからだ。どうしてかというと、「韓国文学」などというものが自明にあるわけでないことは、たった一人の作家、たとえばパク・テウォンを見るだけでも気づかざるをえないだろう。 つまり、日本による植民地支配のため、民族的主体を奪われたかたちで近代化・西洋化を経験しなければならず、解放後は、東西対立の最前線として過酷にも国民国家の分断を引き受けなければならなかった民族が、総体としての自分たちの「韓国(朝鮮)文学」を見通すのは、容易ではなかったし、今なおそうであろう。 「韓国における近現代文学の脈絡と成果を世界文学的な視野で鳥瞰する代表的論考・評論」を収めた『韓国の近現代文学』李光鍋編(法政大学出版局)を読んでも、それがよくわかる。そこで複数の論者が問題にするのは、「韓国(朝鮮)の文学史は可能か?」という問いであり、より実質的には、西洋や日本の近代文学モデルを通じてなされる「文学史」がはたして、民族にとってもふさわしい普遍的なものなのか、それが相変わらず韓国(朝鮮)文学を「周辺的」なものとして押しとどめることにしかならないとしたら、そんなこれまでの「文学」通念を突破する実践こそが要請されるのではないか、という非常に根源的な問いかけなのだ。 こんな真摯な問いかけがあるのに、日本の近代文学を無意識に前提してしまう頭で近づいていって、韓国(朝鮮)の文学作品に接してそれを単に「韓国文学」とみなすのは、あまりにお粗末だろう。むしろ、「日本文学」といわれているものの偏りと狭隘さに気づくべきなのかもしれない。と、旅行中そんなことをもやもやと考えていた。 たとえば、日帝時代において日本語で作品を残している朝鮮人作家もいる。とくに1940年代の朝鮮語排斥政策あるいは創氏改名などの弾圧によって、「内鮮一体」を唱えさせられ、戦争協力に駆り立てられた一群の「親日文学」は、韓国・北朝鮮においてともに激しい批判対象であるはずだが、朝鮮近代文学の第一人者であり、民族独立運動にもかかわったイ・グァンス(李光洙:1892~1950)もそのうちの一人である。彼は「香山光郎」という名で創氏改名を率先しておこない、朝鮮人学徒動員のための演説もおこなったという。 確かにちらっと見ただけでも「親日派」としてのイ・グァンスの文章は、読むに堪えない。しかし『アジア理解度講座1996年度第3期「韓国文学を味わう」報告書』で朝鮮文学研究者の三枝壽勝は、イ・グァンスの代表作『無情』(1917年)などを論じて、パンソリ「チュニャンジョン(春香伝)」の悲運物語の伝統と民族の将来を展望させる啓蒙性をそこに読みとり、のちの日帝協力といえる日本語の小説も、作家の精神の遍歴を通じて見れば、もっとさまざまに解釈できる可能性があるのでは、と説いている。それはそれでわたしも理解できるように思う。 ただ、イ・グァンスの作品をわたしはちゃんと読んでいないので、ここでこの作家についての評価を論じることはできないし、そのことはおいておこう。それよりも、わたしが言いたいのは、このような作家達を「日帝文学」のなかにおくならば、それを包含する(あるいはそれから連続する)「日本文学」だって、どれほどの明瞭な輪郭と境界をもっているといえるのか、ということだ。とくに他民族に皇民化と日帝協力を強要させる、日本人民のいびつな精神の証拠として、それらは「日本文学」に属すだろう。しかし一般にはそういうことは、ほとんど問題にされていないように思える。 すこしまた違う面を考えても、われわれ日本人が韓国朝鮮文学に接近するのは、簡単ではない。とくに韓国朝鮮において近代文学のための言語上の実践が、黎明期からハングル(北では「朝鮮文字」とよぶ)にもとづいてなされていた、という問題がわたしには非常に興味深く、そして同時にこの問題がよびこむ射程の、あまりの広がりと複雑さにおじけづいてしまうのである。とてもわたしには理解しきれないだろう、と。しかし、韓国朝鮮語のあらゆる領域においてハングル使用が全面化していく近代から現代までの展開を、実は、文学こそが牽引していたと見なせる事実に、またわたしは不思議な興奮をおぼえる。 再び、先述した三枝壽勝の『韓国文学を味わう』によると、朝鮮での近代小説の嚆矢ともいえるイ・インジク(李人稙)『血の涙』(1906年)は、新聞連載時には、日本語文章のようなスタイル「漢字ハングルまじり」で書かれていた(すでに新聞紙面のほうでは漢字のあいだにハングルで助詞を補う文体が確立していた)。ところが翌年にこの小説が単行本化されたときには、漢字のないすべてハングルのスタイルに書きあらためられていたという。 本にしたときに総ハングルになったこと自体は、三枝の解説によれば、もともと近代以前の民話や説話のたぐいの物語が、ハングルで書かれていたため、その伝統的な感性にもとづいて、小説を本来的な形に戻したのだろう、と推測している。そして「漢字ハングルまじり」という文体が新聞紙面などで一般化していながら、その後もほとんどすべての小説や詩は、ハングルで書かれることになったのだ。 それに較べて、新聞や公共の刊行物が総ハングルになったのは、韓国ではずっと後の1970年代以降のようである。一方、北朝鮮ではどうやら早くから「漢字廃止」が徹底された。韓国でも解放後すぐにハングルに徹することは、国家政策として決められていたのだが、すぐにはそうならなかったようだ。ひょっとすると、韓国において漢字使用が新聞などを中心に温存されたのは、親日資本家層が解放後も新聞社などをを牛耳っていたことと関係があるかもしれない。しかしよくわからない。 そういったところの問題は、大村益夫『朝鮮近代文学と日本』所収の「ハングル専用問題おぼえがき-韓国の漢字政策」が少々詳しい。面白いとおもったのは、1968年にパク・チョンヒ(朴正熙)大統領政権が、1970年までに公文書・一般刊行物・教育において漢字の使用を完全廃止する計画を打ちだしたとき、その是非をめぐっては、言論界・教育界・文芸界・学会を巻き込んで反対が結構となえられたたらしい。しかしその半分くらいは、独裁政権による一方的な強制にたいしての反発であったようで、現在ではこのハングル路線が韓国でもごく当たり前のように定着している。 さて唐突かもしれないが、わたしは日本語文における「漢字表記廃止論者」である。以前にこのことにかんする簡単な考察を「文学のはざま」第4回「漢字なんてなくてもいいんではないでしょうかという話」で書いたので、詳しくはそちらを参照してほしい。しかしながら、本稿を見てもらってもわかるように依然として「漢字依存」の文章を書いているのだから、その主張はまったく観念的なレベルにとどまっていると言われても仕方がない。だからいっそうわたしには、ハングルによる「文」の実現は、まずなりより驚異的にみえるのだ。 そして旅行中ささやかながら、そんなわたしの心を強くうつことがあった。何かというと、ソウル市内観光中にバスなどの乗り物に乗っていて、街の風景を眺めているとき、特にすることもないので、看板や標識、ネオンサインのハングル文字を、逐一声に出して読んでいたのだ。ハングルの読み方はひと通りできるが、文字をパッと見ても単語の意味や何が書いているのかわかかるまでには到っていない程度の初学者なので、これは音にするだけの遊びだった。 ところがこの遊びをつづけていると、目で見てわからなかった言葉が、口にしてみて、その音が自分の耳に届いた後に、予想に反して、ふと何を意味するのかわかることがあったのだ。 「…クァン、…ファ、…ムン? ああ! クァンファムン(光化門)!」(朝鮮時代の王宮「キョンボックン(景福宮)」の正門) 「なに? …パク、ムル、グァン? パクムルグァン(博物館)か!」(本当の発音は連音化して「パンムルグァン」) 「今度は、…コ、…ス、…メ、…ティク、コスメティック!?」(外来語もハングルで書かれている) 音が結ばれて意味が立ち上がる過程に、これほどのタイムラグが生じることは、自国の言語ではなかなかおこらない(そもそも音声と意味が同時に生成するというのが、「言語」の定義だろう)から、この経験は新鮮だった。もちろん表意性の強い文字を使い慣らし、「文字形態→意味→音声」というプロセスさえ許している(たとえば「川」を見れば「カワ」と発音する前にもう何らかの了解が生じる)わたしたちにとって、「音声優先」の「文字言語」世界は、どうしても異質である。アルファベットに較べてもその形態的要素がはるかに抽象的で、「音こそ意味」というような文字なのだから。でも上記のようなことがあってみると、「同じことは日本語でも可能なのではないか」そんな気がしてくるのだった。 これは何も、韓国朝鮮語に、自分の信じる「日本語漢字廃止問題」の主張に荷担してもらおうといのではない。そうではなく、日本語ではおそらくなされなかったし、今後もなされる予定のない革命、このハングルという文字を通して遂行された韓国朝鮮での言語革命と文学運動が、どんなものとして実現されたのか、日本語にどっぷり浸かっているわたしにも、垣間見ることができるのかもしれない、と直感したのである。 それに関連して、ひとつ「さもありなん」と思ったのは、前掲した『韓国の近現代文学』所収の「ハングル世代とハングル文化」でキム・ビョンイク(金炳翼)が書いていることだ。それによると、ハングルによるまともな教育を年少のはじめから受けることができた解放後の「ハングル世代」とその前の世代とでは、思考原理のようなものが決定的に違うというのだ。それはハングルが、日帝文化でもない、古い支配階層のヤンバン(両班)文化でもない、韓国朝鮮固有の土俗世界に根ざす文字だからであり、そんなハングルによってあらゆる人間的・知的活動を満たせることができるようになったことが、韓国(朝鮮)の「文化史において初めて土俗的な韓国語と思弁的な韓国語の弁証法的な統合」をもたらすことになった。 そして、1960年の四・一九革命で独裁的なイ・スンマン(李承晩)大統領を失脚させ、短命ながら憲政秩序を打ち立てるのに成功したのは、他ならぬその「ハングル第一世代」の台頭においてであったこと、そして、クーデターで揺り戻されても、その後も文化的・政治的領域でたゆまず進められた言語的変革の蓄積が、のちの80年代の民主主義的運動につながったのだと、キム・ビョンイクは強調している。 そんなこんなで「ハングルとは何か」をもっと知るための資料をわたしは欲していた。日本語による文献も旅行前に探してみたが、本自体ほとんどなく、めぼしいものは見つからなかった。それで旅行中のある夕方、ソウルでもっとも大きな書店「キョボムンゴ(教保文庫)」に立ち寄ったのだ。日本でいえばちょうど紀伊國屋書店という感じで、老若男女たくさんのお客でごった返していて、非常に盛況だった。 それにしても書店だけあって、あたりを見回して目に飛び込んでくるのは、街なか以上にハングルだらけだった。こんな大書店でひとつひとつの文字をたどりながら、専門書の中でも狭いジャンルにあるのだろう目当ての本を見つけだすのは、わたしの能力では至難のわざに思えた。仕方なくきわめてつたない韓国語で店員に尋ねると、ややぶっきらぼうながらきちんと「国語学」の棚に案内してくれた(おそらく「ちゃんとしゃべれない日本人のアンタに読めるのかよ?」と思われたような気がする)。その棚の中から手頃な薄さの本で『ハングルの歴史と未来』と題された一冊を見つけることが出来たので、それを購入した。全部読めるとは、まったく過信していないが、わたしの「漢字廃止論」の信念と熱意が本物なら、きっと有益な本となってくれるだろう。 それとはまた別に文芸書も一冊購入した。キム・ジンミョン(金辰明)の『ファンテジャビ・ナプチサゴン(皇太子妃拉致事件)』(2001年)である。旅行前に調べていたのだが、これは「日本による朝鮮侵略のひとつのきっかけとなった、1985年の日本公使らによる王妃ミンビ(閔妃)暗殺事件の真相を明らかにする目的で、韓国人留学生が現日本国皇室皇太子妃の雅子氏を拉致し、日本政府に事件当時の公文書開示を要求するが、日本の警察によって射殺され犯行は失敗、しかし無事に救出された雅子氏が、犯人留学生の動機に動かされて「正しい歴史観」に目覚め、自ら公文書を確認しユネスコに訴え、日本国の暴虐と隠蔽の歴史を世界に暴くことになる……」というまことに面白そうなストーリーの小説なのだ。 ただしこんな話を思いつくということは、作者には、天皇一家になにか日本人民の蒙をひらかせることができる力があるのでは、というような期待があるのかもしれない。しかし実際には、皇室が日本人民に何らかの影響をもたらすのは、反動の方向以外ありえないから、これはとんだ思い違いだろう。だからもちろんこんな結末はファンタジーである。 ただし、島田雅彦『美しい魂』が示したプリンセス悲恋小説的なおためごかしの想像力にたいしてなら、これは十分な皮肉になるだろう。つまり“雅子氏の「お心の病」が伝えられているが、それは単に「ご公務」のストレスが原因であるのではなく、ましてや「禁じられた恋」のための苦しみなどではあろうはずもない。実は多くの日本人と同様「歴史意識の欠如」こそが、「お心」をむしばむことになる本当の原因なのではないのか。忘却を症状とするこの「ご病気」はなかなかやっかいだから、小説に描かれた出来事のような少々の荒療治を必要とするだろう。けれど「歴史意識」に目覚めるとき、雅子氏の「ご憂鬱」はずいぶんと晴れて「お元気」になられるのではなかろうか”というような具合にだ。作家の想像力は、これぐらいであらねばならないかもしれない。 **************************** 以上のように、今回の旅行は、個々にはいろいろと興味深いこと、有益なことに出会えた。しかし全体としては、韓国朝鮮の文学や歴史、あるいは実際に生きている人々や現にある社会について、理解が深まったというよりは、むしろ理解するのは途方もない、という印象のほうが強くなった。それは先に文学にかんして述べたとおりだ。 まったく精算されていないいわゆる「歴史問題」はもちろん、それよりも確かなものに見える文学、民族、言語というものについても、やはり問い直されるべきことは数多いだろう。なのにそんな既存の観念を再考にむかわせるための、小さなひらめきや、認識の部分的な更新は、あるといえどもまだ散発的であったり偶発的であったりだ。くわえて決定的にわたしは勉強不足であり、何ひとつとしてトータルにはまったく消化されていないままである。 ■プロフィール■ (むらた・つよし)1970年生まれ。サラリーマン。「腹ぺこ塾」塾生。
by kuronekobousyu
| 2006-09-01 01:30
| 65号
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