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■連載「メディアななめよみ」第3回■
西ドイツとドイツのあいだで日本のサッカーはどう変わったか――ワールドカップを前にとりあえず言っておこう 山口秀也 そのとき、フランコ総統は死の床にあった。すべてのスペイン国民は、それぞれの思いを胸に、彼の死の報を待っていた。(中略) スタジアムの大変な興奮から、いちはやくのがれたレアル・マドリッドの選手たちは、ドレッシング・ルームでは意外なほど静かだった。ソルのシャツは破れ、選手たちは靴を脱ぎストッキングをおろすのが精いっぱいで、記者の質問に答える以外の力は身体に全然残っていないかのように見えた。 そして、ギュンター・ネッツァーは彼の汗と泥まみれの「白い10番」を私に投げてよこした。外からは、スペイン人のさけぶ「シンコ、ウノ(5-1)」という合唱がいつまでも聞こえていた。 (別冊サッカーマガジン春季号、「素晴らしきサッカー野郎たち」写真・文=富越正秀、ベースボールマガジン社、1977年) ■「国」をあげてのワールドカップの喧騒の中で 前回西ドイツでワールドカップが行われたのは32年前。そのあいだで何が変わったかというと……。日本がようやくワールドカップの舞台に上がれるようになったこと。これは考えてみればすごいことである。しかし、プレーヤーとして、そしてサポーターとしてのメンタリティは、一朝一夕には変わりようがない。でもよくここまでこれたもんだ、ということで全面的に受け入れてしまっている僕がここにいる。たとえばヨーロッパの国ぐにのサッカーを取り巻く環境とくらべれば……。 Jリーグ開幕、ワールドカップ初出場、自国ワールドカップ開催。いずれにも共通するマスコミ、一般人の別を問わない老若男女の浮かれぶりには、腰のあたりがこそばゆくなるばかりだった。 先ごろ終わった野球のWBCの時もそうだった。オリンピックともなると、連日ヒーロー探し、感動秘話のオンパレード……。メダルが取れず、持って行き場のないもやもやが最後の最後にメダルが取れた瞬間に晴れると、いままで元栓を閉めていた涙腺を全開させるのにだれも躊躇などするはずもない。 概してこんな場合のマスコミや発信された情報の受け手の反応には鼻白むばかりの僕ではあるが、ことサッカーに関しては腰のあたりがこそばゆくなろうが、画一的な報道にイラつこうが、怒っているばかりというわけではない。ワールドカップ予選ともなれば、試合中にイライラして機嫌は悪くなる、うろうろ歩き回る、急に素っ頓狂な奇声をあげるわで、家人に迷惑がられているばかりで、……つまりはWBCやオリンピックに一喜一憂しているふつうのオジサンと一緒なのである。 ■サッカー「冬の時代」を過ごしてきて それも無理からぬ話で、栄光のメキシコオリンピックの銅メダルと日本リーグの開幕による最初のサッカーバブルは小さすぎて体験しておらず、サッカーを始めたころには釜本もロートル(それでも本当に凄かった)となり、サッカーの人気それ自体が下降線を辿っていたころだった。 それから長い長い冬の時代を体験し、漸くおとずれたと思ったワールドカップ(86年メキシコ大会)への扉が目の前で潰えた(85年10月26日の韓国戦の敗戦で予選突破に赤信号が灯った)のを国立競技場で体験したおりには、「これでもう一生日本がワールドカップに出ることはないな」という絶望的な感覚に囚われたものだった。 土、日のアルバイトの土曜日を休んで臨んだ一戦であったが、試合後、その重い足どりで京都まで帰り着く自信などなく、無理やり日曜のバイトもパスすることに決めて兄の部屋にもう一晩泊めてもらい、二人で自棄酒をあおったものだった。 それからも、閑古鳥の鳴く競技場にたまに足を運びながら、世界のサッカーといえば、専らテレビと、たまにやってくる「外タレ」を観に行くくらいで、世界のサッカーシーンと日本のそれとがシンクロするときがやってくるとは思いもよらなかった。 1977年に出た「サッカーマガジン」の別冊で「素晴らしきサッカー野郎たち」というムックを今でも大切に持っていて、たまに目を通している。スポーツフォトグラファーの富越正秀氏の写真とエッセイになるもので、先日亡くなったマンチェスター・ユナイテッドの伝説のドリブラー、ジョージ・ベストを追いかけるというのがきっかけで、1971年からヨーロッパを旅して回り撮られたものである。 この写真集は、イングランドに限らず、足の先から頭の天辺までサッカーに浸りきっているヨーロッパの人びとのありのままの姿を映し出して秀逸であるが、そんな対象に引きづられてか、この本自体が表表紙から扉、本文、裏表紙にいたるまでサッカー浸けになった本であると言える。 扉の写真は、マンUの試合をはじめとした数かずのチケットの半券で、最初のページの写真は、マンチェスター・ユナイテッド対マンチェスター・シティのダービー・マッチを反対側のスタンドをワイドに捉えた見開きのものである。どちらかのホームであることは間違いないのであるが、すり鉢状のスタジアムで、サッカー専用とはいえスタンドとピッチの間が極端に狭い構造は、「三菱ダイヤモンドサッカー」でも良く目にしたものである。これも特徴的なイギリスの赤い兵服を着た警備が立っているのも印象的であったが、次のページも見開きで、三々五々スタジアムに参集するサポーターの写真が載っている。マンチェスターの赤いレンガの家並みが曇天というわけでもないのに妙に燻った印象を与えている。このあとに載っている白い痩せぎすの少年のサポーターたちの写真などは、ケン・ローチの映画の登場人物たちそのままに、サッカーと生活がそのまま等記号で結ばれているといった感じが良く出ている。 プレー時の写真と、プレー外のそれらとのバランスがひじょうに良く、なにより間に入るこの写真家のエッセイが名文であったというのが、最近読み返してみた際のあらためての感想である。 この写真集には他にも思い出がある。 小学校のころからずっと同じチームでサッカーをしていたKという友達がいた。彼は勉強もできてスポーツも万能、僕にとって憧れの対象であった。しかも無口で、勉強にもスポーツにもあまり執着しない彼のニヒルなところが女の子にひじょうにもてていた。 サッカーについては、膝と足首がやわらかく、いろんな種類の球を蹴れ、ドリブルもとてもうまかった。ただ、やはり勝ち負けや競り合いに興味がないところが難点といえば難点であった。しかし、そんなところも含めて憧れていた僕は、色いろと彼のことを観察し、真似てみたのだが、どうしても真似できない部分があった。 ふくらはぎである。彼のふくらはぎは、スポーツ選手には似つかわしくなく、信じられないことにふくらみがほとんどなかった。そして僕は、普段からなにごとにもあまり力まず、センスのみで対処してきた彼にとっては、ふくらはぎの筋肉など端から必要のないもの、必然として退化していったのだと結論づけた。そしてその証拠をこの写真集にみつけることができた。当時イングランドで有名な(たしか貴公子と呼ばれていた)トレバー・フランシスという選手がいた。華麗なテクニックで相手を翻弄するセンスはKに似ているように思われたが、なによりトレバー・フランシスにもふくらんだふくらはぎが見当たらない。やっぱり……。妙に合点がいった瞬間だった。 またこの本の中に、ヨーロピアン・チャンピオンズ・カップの歴史に触れる一文が差し挟まれていて、ここに第12回大会でのスコットランドのチーム、グラスゴー・セルティックの優勝のくだりがある。 つい先日、現在セルティックに所属する日本の中村俊輔が、彼の活躍によりチームをリーグ優勝に導いたというニュースが入ってきた。チャンピオンズカップでの優勝が67-68シーズンのものというから、ほぼ40年の時を経て、遠くグラスゴーの地でチャンピオンの座についたチームの中心に日本人がいたという事実は、判ってはいてもにわかには信じられないものがある。今回の優勝を伝える新聞記事では、試合後のロッカールームで、優勝の立役者であるこの東洋からやってきた若者に対して、クラブのOBが「どうかいつまでもこのチームに留まってくれ」と言ったことが短く伝えられていた。ひょっとして「ナカムラ」に懇願したのは39年前の優勝メンバーのひとりだったかもしれない。 この写真集のページをめくるたびに、何層も塗り重ねられたサッカーという地層の厚みに気後れしてしまう自分を感じる。気後れといって悪ければ、純粋に憧れを持ってしまう自分を確認するとてもしておこうか。だから思う。ワールドカップではポッと出(自国開催を控えモチベーションを高く維持して予選に臨めたフランス大会、予選のなかった自国開催の大会、そして今回漸くまともに勝ち取った感のある大会の「たった」の3回)の日本に活躍できる道理がないではないかと。ワールドカップで存分の活躍を望むのはもう少し自国のリーグとサポーターを成熟させてからにしよう、と。 ここに僕はかなり卑屈ではあるが謙虚になった。 (前略)レアル・マドリッドの有名なサンチャゴ・ベルナベウ・スタジアムの十万人以上の観客数をはじめとして、大きな都市には、七、八万人はいるスタジアムがある。しかしスペインの物価から考えてその入場料は高く、人びとは一週間働いたお金を全部サッカーにつぎこんでいるようにさえ思われる。 それはヨーロッパ各国どこも同じなのかもしれない。ヨーロッパの国ぐにの人たちの生活は決して裕福ではなく、かえって貧しい人のほうが多い。現在の生活と、その将来の重荷から救ってくれるものこそ、「今日のサッカー」以外にない。(前掲書) ■日本人のプレーは進歩したか 93年のJリーグの発足は、参加チームの決定の過程、続々と来日する外国人プレーヤーたちの話題を嚆矢として、リーグに先立ってのカップ戦、そしてリーグの開幕を頂点として盛り上がっていった。 そのプレー自体は、プロ化元年のまわりの異常な期待を背に、おどろくほどに熱のこもったものとなった。開幕試合ということでいえば、リーグのお荷物とまでいわれた旧住友金属の鹿島アントラーズの躍動感溢れるプレーにつきるが、大体においては、やたらと激突シーンが目立ったのと、まるで高校生のように必死で走る選手の姿が目立つように僕には思えた。 またどこも攻撃的なプレーをしなければサポーターが離れていくとでも思ったかのように、攻めにこだわっているように思われた。どうすれば攻撃的にできるのか、あるいはどうすれば攻めているように見えるのか。ということで、やたらとサイドバックが攻撃参加のため両サイドを駆け上がっているのを見ることになる。 これについてはJリーグ初代得点王、アルゼンチンのラモン・ディアス(横浜マリノス=当時)が「なぜ日本のサッカーは、両サイドバックがあんなに攻めあがるのかわからない」と言っていたのを思い出す。サイドバックの本業である守備を疎かにし、自分の背後をガラ空きにしてまで攻めあがるようなリスキーなサッカーをやっていることを指摘していた。 しかしディアスの指摘にしても、激突の件にしても今思えば、ここでこけるとリーグの成功はないとばかり、プレーヤーたちが過度の使命感によるものであったと推察する。それからくらべると、ずいぶんとJのプレーヤーたちは確実にうまくなっている。選手やチーム、サポーターはじゅうぶんな経験を積んできたと思っている。けれどもたかだか13年である。ヨーロッパや南米の筋金入りのサポーターに支えられている国の代表にはすべての面においてまだまだである。 しかし、3度目のワールドカップに臨まんとしている代表に対して、専門家は過度に結果を、マスコミや我々はただただ楽観的に、感動だけ要求しているのではないだろうか。 「まったくそうです! 我々は結果ではなく、一所懸命にプレーするサムライ・ブルー(今回のワールドカップに出場する日本代表のキャッチフレーズ)から勇気と感動をもらいましょう!」 やめてくれ。 静かにワールドカップを愉しませて欲しいと切に願う今日このごろである。 ■プロフィール■ (やまぐち・ひでや)京都市出身。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。
by kuronekobousyu
| 2006-04-01 01:30
| 60号
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