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■連載「映画館の日々」第9回■
成瀬巳喜男の日々の泡 鈴木 薫 刻々を睫毛蘂なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ(浜田到) 今年で生誕百年を迎えた成瀬巳喜男の作品を七月の十四日間に28本上映した新文芸坐で27本見て、目下成瀬百回目の誕生日である8月20日にはじまったフィルムセンターでの回顧上映(~10月30日)に通いつづけています(なかなか時間が取れないので――本当はそうしたいのですが――通いつめるまでいきません)。代表作と呼ばれるものはすでに新文芸坐で見てしまったようですが、はじめて見る初期作品やマイナー作品にも、それらにまさるとも劣らない尽きせぬ魅力があります。期間中に主要作品をも見直した上であらためて成瀬論を試みたいのですが、今回は比較的記憶に新しい小品をとっかかりに、いくらかの印象を記しておくことにします。 『朝[あした]の並木道』('36)について、フィルムセンターのチラシは次のように「物語」を語っています。 「成瀬のオリジナル脚本は、田舎から上京した女のはかない恋物語。状況した千代(千葉)は懸命に求職活動をするも、なかなか望む仕事にありつけない。結局友人のすすめでバーのホステスをすることになり、そこで出会った常連客の小川に淡い恋心を抱く。」 千葉とは、成瀬監督の最初の妻になる千葉早智子のことです。あらゆる映画パンフレットがそうであるように、こうしたあらすじは実際に私たちの経験するものから大きくかけはなれています。この説明は、映画の中の「現実」の部分と「夢」の部分をはっきり分けて、ただ「現実」しか語るまいとしています(いわゆる「夢オチ」への配慮が含まれているにしても)。このフィルムの魅惑はあげて「夢」の部分にあるのですが、この文章はそこにだけは触れまいとしているようです。 実際にこの映画を見るなら、〈実際の夢〉がたいていそうであるように、どこから夢になったかはヒロインにも観客にも気づかれません。カフェの女給(「バーのホステス」ではありません)である彼女が、「小川」と駆け落ち(というよりはおだやかな出発のようで、旅行から戻ったら家を買う予定のようです)するほどの仲に何時なったのかと観客がかすかな不審を抱いたとしても、(これは映画だから夢のようなことだって起こりうる〉とたやすく納得してしまうでしょう。 いつの間にか列車に乗っていた二人ですが、男の方はどうやら誰かに追われているらしい(夢といえどもけっしてヒロインの一人称で描かれているのではありませんから、このことはまず観客にとって明らかになりますし、翌朝彼の見る新聞記事という形で、千葉よりも先に私たちに真相が知らされます)。警察の追跡を逃れて、自動車(当時はクルマとは言わないのです)に乗り、海辺を行き、山に逃げ込むあたりのすばらしさ。低い位置から撮られた、波が斜めに寄せる渚のショットや、山狩りをして二人を追いつめる警察――。何年でも待つからと必死に自首を勧めるところで、うなされている千葉の顏へ画面は切り替わります。 夢だったとわかってみれば、彼らが旅館で迎えた初夜が二人きりになったところから翌朝へとつなぐことで省略されていたのも、実は省略ではなくもともと彼女の空想がそうなっていたものと思われます。彼女が見たことのある映画でも、そうした部分は欠落していたに違いないのです(フロイトが、性的主題をオミットするそうした機能を「検閲」と呼んだことの適確さがわかるような)。これは省略ではなく、〈映画のように〉見られた世界にほかならないのです。 「夢でよかった」というのが、夢からさめたヒロインと観客の意識にまず浮かぶ感想でしょう。しかし同時に、そこまで行ってもかまわないと思えるほどの願望の強さを、私たち(と彼女)は痛切に意識せざるを得ません。残念、などという言葉では足りないほどの喪失感を噛みしめつつ、しかし、その痛みは、そのようなことにならなくて本当によかったと思うことで軽減されもします。現実には、その朝やってきて彼女を呼び出した男は遠方への転勤を告げ、連絡先のメモを渡してあっさり立ち去ってしまいます。転勤するので結婚してくれなどという申し込みは、(夢や映画ではない)現実においてはけっして起こらないのです。しかし彼女は紙片を水に流し、明日へ向かって強く生きる決心をします。最後の場面では、女給以外の職をなおも探そうとする彼女の姿が見られます。千葉早智子の明るさゆえに観客に後味の悪さを感じさせないこの作品は、〈夢〉の苦さと甘さの絶妙な匙加減に支えられています。 『朝の並木道』には 貧困、女が職に就いて自活することの難しさ、性的抑圧といった主題が、表立って取り上げられることなく、しかし確実に存在しています。こうしたもろもろの要素は戦後の成瀬の、女たちが置かれた絛件をきわだたせて見せる作品群で、顕在化することになるでしょう。それにしても、『おかあさん』('52)『夫婦』('53)『妻』('53)『妻の心』('56)『女が階段を上る時』('60)『娘・妻・母』('60)『妻として女として』('61)『女の座』('62)『女の歴史』('63)『女の中にいる他人』('66)――プログラム・ピクチャーとはいえ、思えばなんとベタな題名を戦後の成瀬の作品群は持っていることでしょう。 二本の時代劇を撮ってはいますが、基本的に成瀬は同時代にキャメラを向けた監督といえましょう。それは時代のドキュメンタリーでもあり、観客が見るのは、はかなく消えてゆく現在の表層(の永遠化)です。『まごころ』の、瓦屋根の家が並び和服姿の入江たか子があゆむ、かつての夏、どの家もがそうしていたように建具を開け放った美しい町並の通りは、以前なら日本中どこにおいても見られたであろう、ありふれた風景です。戦後の成瀬映画の精巧なセットと違い、これは日本のどこかに本当にあった町なのだと思って私たちは見ます。入江たか子が娘をおぶってその下を歩く大木の列は、今なお残っているのではないでしょうか? 手足がすんなり伸びた水着姿の女の子たちの洗練された映像は、終映後、私の横を歩きながら銀座の方へ折れて行った二人連れの女性たちに「フランス映画みたい」と言わしめたものですが、このフィルムはまた1939年に作られたものであり、出征する父親を送る風景で終ります。赤紙一枚で兵隊に取られた話はよく聞きますが、その際の正しい挨拶は「おめでとうございます」であったのがこれを見るとわかります。さっきまで私たちをほほえませていた女の子が「敵をたくさんやっつけてきてね」と無邪気に口にして私たちをとまどわせもします。フィルムに閉じ込められた彼らはまた、現在に閉じ込められた私たちの喩でもあり、私たちもまた現在にしか通用しない台詞を口うつしにしている者に他ならないのですが。 新文芸坐で上映(フィルムセンターの初日でも)された、成瀬組のスタッフと俳優にインタヴューした記録映画『成瀬巳喜男 記憶の現場』で、小林桂樹がおおよそ次のようなことを言っていました。成瀬監督を思い出さない日はない。なぜなら、朝、起きて窓の外を見ると、出勤してゆくサラリーマンが毎日毎日携帯で話していて、もし成瀬監督が今映画を作るとししたらきっとこれを撮ると思うからだ。小林がいま携帯のTVコマーシャルに出ていることを別にしても、この言葉は私たちを微笑させ、頷かせましょう。成瀬のキャメラが向けられる対象とは、まさしくそうしたものであるからです。世界に成瀬映画しか存在しなかったとしたら、高層ビルに突っ込む飛行機の映像が「映画のよう」と言われることはけっしてなかったでしょう。むしろ、一本の木のすべての葉が、裏を見せながらゆっくりとひるがえる運動を目にするとき、「まるで映画のよう」と人は思うことでしょう。 ロラン・バルトが定義した写真のノエマ――「かつてそれはあった」――から映画ははるかに遠い(そのため、映画より写真を好むとバルトは言っています)。二度と繰り返されることのない梢のそよぎ、流れゆく雲の建築、キャメラの視線を向けられてしまったために、以後つねによみがえる現在となったものたち――その現在は過ぎ去ります。映画は過去(かつてあった――いまはない)ではなく、その場で過ぎゆく、はかない、およそ重々しい伝統や権威に裏づけられてはいないものです。キャメラを向けられたためにそれが永遠になるのではなく、浮薄なるもののまま、それは定着されます――むしろ過ぎ去りゆくことを痛切に感じさせるものとして、それは存在しはじめます。夢と現実に差がないように、かつてあったものと、いま眼前で生成するものの区別はフィルムにはありません。携帯電話のイデアが存在しないように、女のイデアも存在しない――女、妻、娘、母、夫婦……そうした記号がいかにちりばめられようと、〈女〉の〈真実〉や永遠不変な男女関係を成瀬は描いているわけではありません。イデアに裏打ちされないもの、永遠ではなく、過ぎゆくもの、消え去るもの。一時的な、うつろいやすい、偶発的なもの(ボードレールがモデルニテを形容したときの語彙を借りれば)の世界を、かくして人は「映画のように」眺めはじめることでしょう……。 ■プロフィール■ (すずき・かおる)パトリック・カリフィア他著『セックス・チェンジズ――トランスジェンダーの政治学 』(作品社)という本が出ました。実は、著者名の「他」のところに入っている人の短い論文を訳したグループに、私も名を連ねています。パトリック・カリフィアはもとはパット・カリフィアといい、肩書はSMレズビアン作家となっていますが、私は(メイル)ゲイ・ポルノの作家としてずっと名前(と作品)を知っていました。今では男になり、名前もパトリックと変えています。本連載の今年の私の担当分はあと二回になりましたが、一回は成瀬論、あとの一回は番外編として、この本と『やおい小説論――女性のためのエロス表現』(永久保陽子、専修大学出版局)あたりをあわせて論じてみたいと思っています。黒猫さん、如何でしょう? http://kaoruSZ.exblog.jp/
by kuronekobousyu
| 2005-09-01 01:00
| 53号
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