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■連載「伊丹堂のコトワリ」第9回■
「宗教」って何なんだ~!? ひるます 獏迦瀬:前回は「死」について語りました。「死」を考えるというと、すぐ連想するのは「宗教」ってことで、今回は「宗教」をテーマにお送りいたします。 伊丹堂:お送りかい。ま、死者をお送りするのが宗教だといえば言えるがね。 獏迦瀬:あの世に送る…と、つまり葬式をやるのが宗教ですか。 伊丹堂:いや、定義として葬式をやるのが宗教ではなくて、結果として、宗教は葬式をやる。 獏迦瀬:はあ…。 伊丹堂:つまり、なぜに宗教が葬式をやるのかってのが、カンジンなこっちゃな。 獏迦瀬:なぜに…ですか、まあ宗教といってもイロイロでしょうからね…。 伊丹堂:そ、仏教とキリスト教の場合だけ考えてみたって、その意味合いは異なるわな。 獏迦瀬:ですよね。成仏させるというのと、神の国に復活させるというのではかなり違いますよね…ただ人の死後の問題を扱ってるということでは共通しますけどね…。 伊丹堂:ま、ここで宗教学をやろうというわけでもないし、誰もそんなもの期待しとらんじゃろうから、具体的な宗教についてはいちいち言わんがな。いずれにしても、いうことは宗教とは「人の死後の問題」に関わっている、ということがまず言えるわな。 獏迦瀬:人間の死後について考える…あなたの知らない世界ってことですかね(笑)。 伊丹堂:うむ、しかしようするに死後について考えるってのは、どういうことか、といえば一言で言って「超越」ってこっちゃろ。 獏迦瀬:超越…超常現象ってことですか?? 伊丹堂:アホか。超越ってのは、ここで何度も話題にしていることじゃ。つまり人はさしあたってたいていは目先のことを配慮して生きているが、それとは別に全体的な観点からモノゴトをとらえようとする、これが超越ってこっちゃ。 獏迦瀬:ああ、それは「政治」の話の時によく言ってましたね。目先の配慮の連鎖で出来ているのが世の中で、それに対して超越的な観点から介入するのが政治というものの構造だと。 伊丹堂:そういう構造をつくっているのは、ようするに人は目先のコトだけでは生きていられず、ついついそうしなくていいにもかかわらず「全体」を思考してしまう存在だから、というしかないわけじゃ。 獏迦瀬:人の人生の「全体」を考えれば、当然、死や死後のこと、というのを含めて考えることになる…ということですか。 伊丹堂:個々の人生というのもそうじゃが、むしろ人間というものが「どこから来てどこへ行くのか」を問題にするのが宗教というもんである。 獏迦瀬:壮大なんですね…僕なんか、こ~いう哲学的な対話に参加しながら、ほとんどそんなコト考えたことはないですけどね…。 伊丹堂:いかんな、ってのは冗談で、それが普通じゃろう。よ~するに、人が超越的な観点から思考してしまう、という構造にある、ということと、ある個人がそういう「テツガク的なこと」に熱中して考えてしまうということとはまったく別次元のことじゃからな。個人のそういう思考(趣向)は、ようするに関心事の問題であり、実存の問題なんじゃからな。 獏迦瀬:実存でなく、構造の問題? 伊丹堂:ある意味で「宗教をやってる人」にとっては、宗教ほど実存的なものはないわけじゃが、それはおいといて、ここでは「構造としての宗教」を見ておきたいってことヨ。つまり宗教というモノにある種の普遍性があるのは、人が熱烈にそのようなコトを考えるというわけではなくて、人間が普通に生きていく上で、どうしてもそういう観点をチラッとでも必要としてしまう、というところにある。 獏迦瀬:ようするに自分で探求しないけど、気になるというか? 伊丹堂:気になる(笑)また一言でいえば、人間ってのは、納得したがる動物でもある。 獏迦瀬:ナットクしないと落ち着かない…ってのはありますよね。 伊丹堂:じゃから、自分らの世界全体がどうなっていて、世の中の全体がどう動いているのかってことに対する知識、つまり「世界ってこんなもん」という暗黙の了解っつ~かな、そういうもんは絶対に必要なわけよ。別に宗教を持っていない我々にとってもそういうもんがあるわけじゃろ。宗教ではないが、なんとなく物理科学的に説明された世界観っつ~もんが。そういう科学の登場以前には宗教的な世界観が支配していたわけよ。 獏迦瀬:そこでは宗教が必要とされたと…。 伊丹堂:というか、古代国家というのは、ほとんど「宗教国家」じゃろ。ようするに宗教と政治が一体となって、人々がある種のナットクの中で安定的にくらす「世の中」というのがでてきていったというわけじゃな。 獏迦瀬:なるほど、まつりごと、と言いますからね。 伊丹堂:そう、まつり、つまり宗教的儀式と、政治、つまり世の中に対する超越的介入が、おなじ「まつり」という言葉で表現されるってのは、象徴的だわな。ま、いかに古代国家が宗教的な「意味」でもって社会・国家を創り出していったかということを研究したのがウェーバーの「宗教社会学」で、これは必読書じゃな。 獏迦瀬:いまの政治では「政教分離」ということが言われますけどね。 伊丹堂:しかしそれはまた誤解されているわな。政教分離というのは、またまた一言で言えば、宗教的な指導者が直接、政治的指導者とはならないってことじゃろ。しかし、依然として世界のほとんどの国家は明確にであれ、暗黙のうちにであれ「宗教国家」ではあるわけよ。 獏迦瀬:キリスト教国家、イスラム国家ってことですか。テロの原因でもありますよね。 伊丹堂:日本だって、天皇教国家なわけよ。 獏迦瀬:うわわ。 伊丹堂:事実じゃからしょうがないわな(笑)。日本なんてはるか以前に政教分離がおこなわれ、摂関政治、幕藩政治、ときて明治政府、戦後民主政府、と続くわけじゃが、いずれにしても「国家であること」の基盤はあいかわらず「天皇の国」であるというところにあるわけじゃろ。 獏迦瀬:西欧のキリスト教国家というのはどうなんです。 伊丹堂:国家の存在理由というとこじゃろ。国家は、けっきょくのところ、国民がキリスト教徒としてまっとうに生涯を生きて、いずれ神の国に転生する、ってことを保障するというか、保護するために存在するっていうのが、暗黙の了解じゃ。このことを考えずに、単なる「民主国家」などと考えると、現代の世界情勢というのは、まったく理解できなくなるわけよ。 獏迦瀬:ナルホド…。 伊丹堂:ようするに人はナットクしたがっている、と言ったが、そういう意味では、宗教-国家-個人という三位一体っつ~かな、それは個人の深いところで、ナットクが形成されていて、それがほとんど人格の基盤をなしている、といってもいい。靖国に行きたがる首相や、なにがなんでもイスラム国家をこの世から消滅させたい集団がいて、その人たちにどんなに「理屈」を言ってもその考えを変えることなどできないのは、そのためよ。 獏迦瀬:話せば分かる、わけではない、と…これは「バカの壁」のキャッチでしたね(古)。 伊丹堂:みんながカント哲学を学べば理解し合える、なんて寝ぼけたことを言ってもしょうがないわけ。 獏迦瀬:どうすればいいんですか、けっきょく、「正しい」宗教、というか、絶対の宗教というのはないわけですからね…。 伊丹堂:それは前に竹田問題(カルチャーレビュー25号)で話したが…、ここで言っとくべきなのは、「宗教だから」いろんな考えや実存のあり方があって、正しいものがないというのではなくて、一般に、人の考えや行動は「コトの創造」だから、絶対のものはありえない、ということじゃな。ましてや宗教や実存がかかわる「超越」の問題については、まさにカントではないが、どうとでも言える以上、共通の理解にいたるはずがない。だからカントを学べ、というのではなく、そういうもんだということを「割り切って」他人とつきあっていくしかないってことじゃ。 獏迦瀬:了解です。ところで、そういう暗黙のというか、背景の生き方としての宗教ということとは別に、「宗教やってる人」の問題というのがありますよね。 伊丹堂:オウム問題っつ~か? 獏迦瀬:まあ基本的には新興宗教ですよね。勧誘してきたりする人たち。 伊丹堂:ふうん、まあ人に迷惑をかけなきゃ何やってもかまわんというのがワシの立場じゃがな。 獏迦瀬:非常に多いように思いますけどね。 伊丹堂:そりゃ考えてみれば分かるが、国家があからさまに「宗教」的生き方を語らなくなった以上、どっかでそれを補填しようという動きが出てくる。 獏迦瀬:オウムは「ナントカ省」なんか作って「国家」の戯画だとよく言われてました。 伊丹堂:というか、このところ話題にしている「実存」の問題よな。人が生きる上で、熱烈にではなくても「超越」という観点を必要としている以上、身近にそういうことを語る者がいれば、それに飛びつくということは当然ありうるからの。 獏迦瀬:そりゃそうでしょうね。とくに哲学とか思想ということにまったく接してなかった人が、ちょっと「超越的」なことを語る「ナントカセミナー」で「気づき」を得た、なんてのが多いですよね。「哲学者」の伊丹堂さんとしてはどうなんすか、そういうの。 伊丹堂:なんか誘導くさいの(笑)。もちろん、ワシは宗教的な考え方を批判する者なんじゃが、しかし、そういう生き方を一概に否定できないのは、とくに地方都市などに暮らしていて、さしたる楽しみもなく、社交もせまく、しかし過酷な経済状況を生きなければならない人などに「いきがい」を与えているというところがあるからじゃ。 獏迦瀬:そういう人に宗教をやめろと言っても意味ないですよね。 伊丹堂:というか、逆に「単純に宗教を否定する」人たちに危惧を感じるわけよ。つまり、自分自身で「超越」という問題を考えたことがあるのか、と。 獏迦瀬:何も考えていないだけじゃないか、と(笑)。 伊丹堂:実際そうじゃろう。そういうことをふまえて言えば、ワシはもちろんアラユル宗教を否定する者ではある。 獏迦瀬:そのココロは。 伊丹堂:ようするに思考停止じゃろ。せっかく「超越」のことを「気づいた」んなら、そこである一つの「神話」にナットクするのではなくて、もっととことん考えよってこと。 獏迦瀬:宗教の場合は、けっきょく「修行」というところに行きますよね。 伊丹堂:トコトン修行。体でわかるまで、というかね。 獏迦瀬:オウムの分析でよく「ワーク」ということが言われますが、ようするに教団の全体の中で、それぞれが分担の仕事をして、それぞれが「生きる意味」を実感できる仕組みになっていたという。あれは教団の構造としてうまく出来ていたと言われてましたが、まさに「宗教国家」のミニチュアであるわけですよね。 伊丹堂:ま、ただそれは宗教国家の「世俗面」なんじゃが、修行ということは、またそれとは異なるそれこそ「超越的」な体験なわけじゃろう。 獏迦瀬:神秘体験ってことですか。 伊丹堂:と、いうことじゃが、だからといって超常現象というわけではない。一般的にいえば、前回話題にした「実存モード」のことじゃな。 獏迦瀬:ああ、魔の刻というか、魔境ですね。 伊丹堂:ようするに宗教的な創造者というのは、そういう「魔境」に自分をおいて、その中で直観的に自分の宗教的世界を創造する。本人にしてみれば、神のお告げだったりするんじゃろうが、いずれにしても、そういう非日常的な「変成意識」状態というか、そういうモードの中ではじめて「超越」の問題が体でワカルと、いうところがある。 獏迦瀬:なるほど。 伊丹堂:宗教の信者の修行というのは、たいてい、教祖と同様な意識状態に自らをおいて、そこで体験的に「会得する」というところにあるわけじゃな。 獏迦瀬:う~ん、宗教に限らず、実存体験というものはそういう意味合いがあるというのが、前回の話でしたね。 伊丹堂:しかしそれは受動的な気分である、ということも言った。しかも宗教的な修行であれば、結論は最初から決まってるわけで、ようするに予定調和じゃよな。 獏迦瀬:そう言っちゃうと身も蓋もない気もしますが…たしかにそれはそうでしょうね。 伊丹堂:ようするにそれが思考停止ってことよ。そういうものにしか出会えなかったということが不幸なんじゃが、それはしょうがないわな。 獏迦瀬:あらゆる宗教は思考停止であると。 伊丹堂:そうは言わん。たとえば釈迦の教えというのは、ようするに「魔境体験」の中でさまざまなナットクが起きたが、そういうことの一切を幻想と見切ったということじゃろう。以前、釈迦が実存主義者だったという話を紹介したが、それ以前に彼の教えというのは、まっとうな「哲学」なわけ。 獏迦瀬:哲学せよ、ということですかね。 伊丹堂:とは言わん。哲学だけで人は生きていくわけにはいかんからな(笑)。「オムレット」で言ってるように、人にはそれぞれの関心事というものが必要で、インターネットを使ったりしてどんどん世の中が面白くなるのは結構なことよ。それとちょっとばかり良質の哲学があればよい。 獏迦瀬:はあ…なんかそれってまた自分の宣伝なんじゃないでしょうね(笑)。 伊丹堂:というか、いまの問題は、「哲学の宗教化」ということがアチコチで起きてるのよ。なんとなくエッセイめかして、ある種の結論を「神話化」するとか、むしろ積極的に「神秘」を語るとかな。ま、誰とは言わんが、イロイロよ。 獏迦瀬:精進しましょう。。。 ■プロフィール■ (ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」
by kuronekobousyu
| 2005-08-01 01:00
| 52号
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