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■黒猫房主の周辺「責任論の位相」 ★暑中お見舞い申し上げます。 ★新刊の仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)を読みました。評判らしくすぐに重版している。その第一章で日本とドイツの「戦争責任」を比較しながら、日本の戦後の戦争責任論が混乱しているのは、ヤスパースが分析した四分類(刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪)のような筋道をつけた責任論(『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー)が出なかったからだと書いているが、果たしてそうだろうか。 ★柄谷行人もこの責任の分類を不可欠だと認める。そうでないと、あらゆることが「責任」と同一視されてしまい、けっきょく責任が問われなくなるからだが、責任とはその本質においてすべて「形而上的」だとも言います。それは因果関係を問おうとする態度からは責任は生じてこないからで、責任を引き受ける態度は、他の原因によらない自由意志(自律性・自発性)に基づく「倫理的態度」であるからだとされます。 ★しかし形而上的ということに特別高邁な意味はないとも柄谷は言い、ヤスパースがドイツ人に向かって、あえて形而上的罪を自ら感じ引き受けるべきだと説いたことは、実はドイツ人を高邁な民族として救済しようとした欺瞞であると批判しています(『倫理21』太田出版)。 ★このヤスパースの主張は、戦争責任を「血=生理的遺産」という共同性に求めた家永三郎(『戦争責任』岩波現代文庫)とも心情的には通底しているように思われます。その家永を批判した高橋哲哉が、今度は加藤典洋を批判する論争の過程で、「汚辱の記憶を保持し恥じ入り続ける」という言い方をしたのは、高橋が批判しているはずのナショナルな「共同的な語り口」に陥っていると、加藤によって反批判されます(高橋哲哉『戦後責任論』講談社学術文庫、加藤典洋『敗戦後論』講談社)。この「共同的な語り口」の点での保守派・革新派の構造的同一性の指摘は、例外的に革新系の池田浩士によっても賛同されます(「終わらぬ夜としての戦後――加藤典洋『敗戦後論』の問題、『レヴィジオン[再審]第1輯』、社会評論社)。 ★ここには、直接には加害責任(罪)のない戦後世代が、なぜ「戦争責任/戦後責任」を負うことになるのかという課題の困難さが表出しています。宮台真司はブログで、西ドイツの大統領だったヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの「1945年5月8日~あれから四十年」と題した記念講演(「戦争を知らぬ世代」も戦争責任を負うべし)に言及しながら、行為(別様の選択可能性)が「罪=過去言及」を生み、関係(選択不能な所与の事実性)が「責任=未来言及」を生む、という論点を展開しています。http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277 ★「選択不能な所与の事実性」とは、アーレントの言う「自発的行動によっても解消しえない」という「集合的責任論」に近いようですが、この選択不能な関係とは「先験的選択」(大澤真幸)であり、宮台によれば「親-子」「国-国民」の関係だとされます。確かに、先験的に親を選んだりどこの国に生まれるかを選ぶことはできませんが、事後的にその関係を解消することは原理的には可能です。仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書いていますが、不適切な比喩だと思います。親の相続放棄は簡単にできることですから。 ★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任=応答可能性)でもあると思います。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意も、またその課題の表明でしょう。 ★斎藤純一は次のように言います。「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。 ★しかし集合的責任と言えども限定的責任であることから、斎藤純一は国民国家の配慮から排除された人たちへの、さらなる責任として「普遍的責任」(アーレント)を問うています(「政治責任の二つの位相」、『戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)。(黒猫房主) ★野原さんのサイトhttp://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827で、引き続き議論を継続しています。(2005.8.29) ★野原さんの危惧への応答として。 >結局のところわたしの危惧は、斎藤の論=「罪Schuldの重荷」論になるのでは、ということなのかもしれない。(野原) 高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方には私も抵抗があり、「罪Schuldの重荷」論を感じますが、斎藤純一の論はそれとは異なります。 長くなりますが、正確さを期すために下記に斎藤の意図を引用します。 「・・・私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。しかし、このことは「日本人」の一員として、他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。次の二つの点に留意したい。第一に、他者による「日本人」としての名指しを受けとめることと、私たちが自らを「われわれ日本人」として積極的に定義し直すこととの間、「日本人として問責される」ことと「日本人として責任をとる」こととの間には、決定的な違いがある。「日本人」としての自己定義は、集合的表象をあらためて打ち立てる方向性をもつが、「日本人」としての名指しを受け入れるべきなのは、そのように問いかける他者との間で再-交渉のプロセスを開始するためであって、加害者集団のアイデンティティをもって被害者集団に向き合うためではない。私たちに求められているのは、集合的表象の応酬に陥らないような、あるいはそれに抗することのできる公共圏を具体的に創出することであって、他者による集合的な定義づけに抽象的な自己表象=「われわれ」をもって応じることではない。重要なのは、集合的な主体をアイデンティファイすることではなく、自-他の間にある問題をアイデンティファイすることである。 第二に、私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、その非対称性は相互性を拒むわけではない。一方が問う(告発する)側でありつづけ、他方が応える(謝罪する)側でありつづけるわけではない。一つのモードに固定したコミュニケーションは、やがて関係そのものの破綻を導くだろう。(・・・)共通の歴史的出来事を違った仕方で経験しているという非対称性は、他者の立場にたつということが根本的に不可能であるという自覚を求めるけれども、そうした歴史的経験の違いは、双方の間に私のものでもない公共の認識や記憶を形成していくことを妨げるものではない。むしろ、それぞれの国民が自らの過去を排他的に所有するのではなく、国民の境界を横断する記憶や歴史認識を共有していくためには、同じ出来事をまったく違った仕方で経験してきた他者との語りの交換こそが不可欠である。私たちと他者の記憶が脱-領域化されるかどうかは、そうした相互的なモードのコミュニケーションがどれだけ深まるかにかかっているように思える。」(p90~p91「政治責任の二つの位相」、『戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)
by kuronekobousyu
| 2005-08-01 00:00
| 52号
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