リンク先
■発行元関係
るな工房・窓月書房のWeb シャノワール カフェ 本館 シャノワール カフェ 別館 カルチャー・レヴューWeb版既刊号全掲載 哲学的腹ぺこ塾 黒猫業界新報 ■寄稿者関連 鈴木薫氏の「ロワジール館別館」 中原紀生氏のブログ「不連続な読書日記」 ひるます氏の「臨場哲学」 野原隣氏の「彎曲していく日常」 F氏の「バラン ドル ヨジャ」 ■巡回ブログ 田島正樹の哲学的断層 charisの美学日記 宮台真司ブログ 双風亭日乗 千人印の歩行器 吟遊旅人のつれずれ 猿虎日記 書評空間 カテゴリ
全体 47号 48号 49号 50号 51号 52号 53号 54号 55号 56号 57号 58号 59号 60号 61号 62号 63号 64号 65号 66号 67号 68号 69号 70号 臨時号 通巻77号 78号 81号 83号 84号 85号 91号 未分類 最新のトラックバック
フォロー中のブログ
以前の記事
2010年 04月
2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 04月 2008年 02月 2007年 12月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 04月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
■連載「伊丹堂のコトワリ」第7回■
「世の中」って何なんだ~!? ひるます 獏迦瀬:いよいよひるます氏の事務所では『オムレット2』に向けた動きが本格化してきましたね~。 伊丹堂:ふ~ん、ほんとなのかね。ま、どうせワシは主役ではないからの(笑)。 獏迦瀬:とりあえず事務所の「ユニカイエ通信17号」で『オムレット』の誤植暴露大会がありました(http://www.unicahier.com/17/)。なんか伊丹堂さんのノドチンコは逆さに向いてるらしいですね(笑)。 伊丹堂:あれね、よく気づくよ。 獏迦瀬:まあ、いずれにしても『2』をやるなら、もっと売れるものにしないとしょうがないですね。流行の「頭がよくなる…」とかを冠につけたらどうでしょう。 伊丹堂:「頭がよくなる哲学マンガ」…ねぇ。まあ、マンガはともかくとして、この対談シリーズ読んでりゃ、そうとう頭はよくなっとるはずなんじゃがね(笑)。 獏迦瀬:はあ…そうすか。でも今はやりの「頭がいい人悪い人」ってのは、人に「頭がいい」とか「悪い」と思われるという問題であって、実際に頭がいいかどうかは関係ない話みたいですね。 伊丹堂:当たり前じゃ、マニュアル読んで頭がよくなるわけがない。 獏迦瀬:はい…、でもこの対談は? 伊丹堂:頭をよくするための対談ではないが、結果としては頭がよくなってしまう(笑)。 獏迦瀬:そうなんですか…。 伊丹堂:っていうか、かのベストセラーを読むと、ようするに「頭が悪い」というのは、人やモノゴトへの対応がヒステリックということじゃろう。対応にゆとりがないというか、そもそもコトに対応せずワンパターンの反応をするから馬鹿に見える。ヒスっていうよりは、神経症的、というべきかもしれんが。 獏迦瀬:なるほどね。われわれもカルチャーレビュー42号でヒスをとりあげました。 伊丹堂:まっとうにモノゴトに対応してりゃ、馬鹿には見えないもんよ。 獏迦瀬:そうゆう役に立つ対談ってことですね(笑)。というわけで、前回、実存という話をしまして、いかに生きるべきかという「道」が示される必要がある、とそんな話になりました。その「道」というのが結局、まっとうさということになりますかね。 伊丹堂:というか、まっとうかどうかは結果論じゃからな。ただまっとうであろうとする努力があるのみよ。 獏迦瀬:どうすればまっとうになれるんでしょう。 伊丹堂:言葉でいえば簡単なことじゃが、まっとうさというのは、日々、まっとうに生きる人に出会ったり、自分の行動を吟味したりしつつ、じっくりと蓄積されていくような、なにかとしか言えんからな。ようするに道を究めればいいわけよ。 獏迦瀬:道ね…。 伊丹堂:『オムレット』的にいえば「関心事」を極める。人は具体的なモノゴトを通じてしか成長できんようにできてる。なんらかのモノゴトをヨリドコロとしつつ、創造し、人とコミュニケーションをするということでしか「まともさ」は身につかんと言ってもいいわな。 獏迦瀬:たしかに。ひとりで哲学的な思考にふけっていても、進歩はない気がしますね。 伊丹堂:だいたい哲学「しか」やってない人の話が面白くもなんともないのは、そのせいじゃ(笑)。 獏迦瀬:ああ(笑)、そういう人の話で突然、シュミの話とか出てくると最悪ですよね。 伊丹堂:本人は気の利いたたとえ話のつもりなんじゃろうがな。 獏迦瀬:いずれにても、そういうシュミでなく…関心事ということですか。 伊丹堂:まあ、ことさらに関心事ではなくて日常的なコトガラでも、何十年にもわたってそれを極めたという人がまっとうな人になる、ということは結果論としてはある。しかし一般には関心事を通じて自らを鍛えた方が、成長は早いわな。 獏迦瀬:関心事はいかにして見つければいいのか…という話は『オムレット』の蛇足対談でもしましたね(笑)。 伊丹堂:その話はこの連載でいえば、第二回で語った「文化」の問題ということになるわけじゃろ。 獏迦瀬:ああ、文化ね…ようするに「生き方のフォーム」ということでした。 伊丹堂:関心事やら生き方のフォーム「文化」としてこの社会というか「世の中」に伝承され、蓄積されとるわけじゃな。 獏迦瀬:「文化」の話のときにも、文化は実存の可能性の土台というか、ヨリドコロである、という話が出てましたね。そこで問題なのは、日々の習慣化された行動も文化というか生き方のフォームに基づいているし、人がある種、倫理的な志をもってそれこそ「実存」する場合も、そこに文化的なフォームが必要ということになると、その違いは何なのか?ってことなんですが。 伊丹堂:いや、そりゃ単純に文化の質の違いじゃろ。というか、人はさまざまなフォームを同時に使い分けて生きているということじゃろうな。 獏迦瀬:それはそうなんでしょうけど、ただ日常的な生活のフォームというと、非常に受動的な感じがするじゃないですか。志をもった実存もまた受動的にフォームをなぞっているだけとすれば、人はただ流されて生きているという感じがします…、というか、むしろ人は受動性において生きているという捉え方もあると思いますが…。 伊丹堂:なるほど、というかそれは当の本人の意識にとって、どう受け止められるかという解釈の問題のような気もするがの~。 獏迦瀬:解釈ね…。 伊丹堂:というか、「La Vue」の「倫理って何なんだ~」や「正義って何なんだ~」の時からすでに、倫理的行為において、「~するのが正しい」というコトのリアルが到来し、それを人が行うというのであれば、それは受動的な行為なのではないか?という議論はあったわけよ。 獏迦瀬:習慣=ハビトゥスによるのであれば受動的であろうと…。 伊丹堂:このへんはワシは参加しとらんが、「臨場哲学」の「ハビトゥスの哲学」(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head72.html)でちょっとふれておったな。 獏迦瀬:山内志郎さんの「中動相的事態」という話ですね。喜んだり悲しんだりという人間の感情は、受動的に悲しまされたり、能動的に悲しんだりしているわけではなくて、自ずからわき起こってくる(受動的)ものでありながら、自らの表現として能動的な側面もあるという、どちらでもあるものとして「中動的」ということを言っていましたね。 伊丹堂:うまい言い方じゃが、一般人には使いにくいわな(笑)。ワシ的にいえば、リアルの到来…ということじゃが、ここでなぜそれを「リアルに受動的に動かされる」と表現しないかというと、それには深いわけがある。 獏迦瀬:というと。 伊丹堂:『オムレット』をはじめから読めばわかるが、基本的にこの本は脳神経系で、どのように世界が認識されているか、という話からはじまっている。 獏迦瀬:認知科学というジャンルにおかれたりしてますからね(笑)。 伊丹堂:そこで受動というと、「外界からの刺激」によって、受動的に脳内の信号が伝達され、それに対して人間の行動が引き起こされる…という機械的な説明になってしまう。そんなわけで、受動という言葉は使えないわけよ。 獏迦瀬:なんだそんなことですか(笑)、『オムレット』では先制的作用というようなことを言ってましたね。生き方のフォームの場合もそういう先制的なものである、と。 伊丹堂:ちゅ~こっちゃな。ようするにコトの創造というかね、あるヒラメキが到来したとしても、それを実行しないということが人間にはありうるし、具体的にそれを実行するとなると、たんに「受動」ということではすまされないデテールというものがあるわけよ。 獏迦瀬:たしかに受動的なヒラメキだけではこういう対話文は書けませんよね…。 伊丹堂:それはどうか知らんが(笑)、いずれにしても、生き方のフォームということには、そういう受動的かつ能動的で、かつ「そうしなくていいのでしない」とか、「そうしなくていいのにする」というさまざまなファクターがからみつつ、人の営みが営まれていくわけじゃね。 獏迦瀬:そういう営みが実際に行われ、文化がフォームとして蓄積されていく「場」が、伊丹堂さんのいう「世の中」ってことですよね。この概念もちょっと説明してください。 伊丹堂:「世の中」という言い方自体は、たんなる名付けにすぎんから、なんと言ってもいいわけじゃが、ようするに単に「社会システム」という言い方だと、それこそ受動に人が社会の仕組みを成り立たせるように動かされているというニュアンスが強くて、そういった人の営みという側面が捉えられないので、あえて使っておるわけじゃが。 獏迦瀬:「世の中」の伊丹堂的定義は「人々がその都度その都度の目先のコトガラへ配慮してする行為の連鎖が全体としては調和して成り立っている(社会)システム」ってことでしたね(「正義って何なんだ~」La Vue8号掲載、等)。 伊丹堂:目先のコトガラを配慮していつつ、全体として破綻に至らないのは、結局は、その配慮が、実は全体の中で錬成されたフォームをヨリドコロとして行為していたからだ、という循環論法になっているわけじゃがね。 獏迦瀬:世の中というのは、ようするにそういう循環論的なものだということですかね…、ようするに以前も話に出ましたが「せ~の」で始めたものでない以上、世の中の「はじまり」というのは気がついたら循環していた、ということでしかないんでしょうからね。 伊丹堂:せ~ので始まる社会学は全部ウソというか、物語ってことじゃな。 獏迦瀬:ところで社会と「世の中」は違うわけですよね。 伊丹堂:これは「世間学」の教えるところじゃが、ようするに「社会」というのは、特殊なヨーロッパ的概念。 獏迦瀬:日本には「世間」はあっても「社会」はない、と。社会は個人と個人の契約によってつくられている…ということですよね。 伊丹堂:必ずしも個人ではなくて、階級とか団体とかいろいろな主体があるが、いずれにしてもその関係が「契約」というもんであるってことな。契約っちゅうのは、ある種の敵対的というか分断的な関係にある者どうしが第三者(たとえば神)を仲立ちにして、とりあえず手をとりあうっちゅうことじゃな。 獏迦瀬:ようするに「共通の時間」を生きていない者同士の結びつきってことでしたね。 伊丹堂:しかし日本の「世間」の場合は、逆にそういう「共通の時間」を介して人々がつながっているという状況なわけで、ようするに「社会」ではない。 獏迦瀬:ホリエモン対フジサンケイグループは象徴的な事件ですよね。 伊丹堂:まさにね。法というか経済的な所有関係を根拠に会社を経営しようとしたホリエモンと、会社をつとめあげてきた「ウチの会社」という共同体意識で会社を経営しようとする現経営陣とのしのぎあいは、「社会」対「世間」じゃな。ま、それが「ニュース」になること自体、日本にいかに「社会」という関係がないかの表れでもあるわな。 獏迦瀬:現時点(3/23)では、高裁で「新株予約権発行差止め」が認められ、いちおう日本にも「社会」はあるということで踏みとどまったわけですが。 伊丹堂:いずれにしても、そういう「社会」を持たない社会というと変じゃが、そういうモンは日本だけじゃなくて、世界にはいろいろとあるわけで、それを語るには「世の中」という言葉が必要となる。 獏迦瀬:ようするに「社会」も「世間」もひとくくりにする集合概念ってことですかね。 伊丹堂:というよりも、社会や世間というのは、それこそ「文化」的な概念であって、その基体となる人々の行為の連鎖そのものを「世の中」ということにすれば、わかりやすい。 獏迦瀬:「社会」は文化、つまり人が人とどうつきあうか?のフォームのひとつというわけですね…。 伊丹堂:それと「社会」というと「個人と社会」というように、個人とのかかわりは恣意的というか偶然的なものに感じるじゃろ。 獏迦瀬:社会とは関係なく個人が存在しうるという感覚ですか。 伊丹堂:実際、社会というのは、そこから抜けることができるわけよ。契約なんじゃから、それを破棄すればいいわけじゃからな(笑)。 獏迦瀬:まあそうでしょうけど…。 伊丹堂:じゃが、人はコトをなす者として、なんらかの他人との「かかわり」の中でしか生きていくことはできない。人が存在するってことはウラハラに「人とのかかわり」つまり「世の中」に生きる、ということでもある。そういう意味で「世の中」は、人が生きる宿命的な基盤なんじゃな。 獏迦瀬:切り離すことのできない関係…。人間は人の「間」と書く、ということの意義というのが昔からいわれますが、まさに「世の中」というのがそれなのかもしれませんねー。伊丹堂:ふふ、しかし逆に「世の中」の方からすれば、人が生きることによってはじめて「世の中」はその体をなしている。人は日々、世の中を創り出している、ということにもなるわけじゃ。 獏迦瀬:なるほど…。 伊丹堂:キミも日々、世の中をつくりだしているという自覚をもって生きてゆきたまえよ。 獏迦瀬:精進します…。ところで「世の中」という概念で重要なのは、それと「政治」ということがセットになってるってことでしたね。以前「正義とは」の話でも話題に出ましたが、そのような「世の中」に対して、超越的に介入する構造を「政治」という…。世の中は「目先の配慮」で動いているから、それだけではうまくいかないので、そういうものが必要だということでした。 伊丹堂:まあそれはひとつのストーリーとしてってことじゃな。ようするに世の中のはじまりが循環論的なものであるのと同じように、いつ政治が始まったのかはわからないくらいのもので、ようするにそれほど世の中と政治というのは密着した構造としてあるわけじゃな。 獏迦瀬:どんな時代の社会、じゃなかった世の中にも当てはまる構造…と。 伊丹堂:と、定義しておくと、非常にモノゴトが明解になるってことじゃな。肝心なことは社会的に、というよりも、公共的にまっとうなことをなそうとするならば、必ず政治的な権力というものの行使が必要になる、ということじゃな。これについてはその正義論や「民主主義入門」の付録コラム(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/COMIC2/minshu.html)でも語ったように、政治=国家と固定的にとらえるのではなく、一般的に超越的観点から世の中に介入する行為そのものを政治および政治権力と捉えるべきということなのじゃな。 獏迦瀬:でしたね。ところで、ここで問題なのは「世の中」という場合、どの範囲をひとつの世の中として捉えるか、ということです。 伊丹堂:世の中そのものの中に世の中の境界は存在しない。境界はそれこそ、超越的な介入としての「政治」によって、明確にされるしかないとも言えるな。 獏迦瀬:現実的には国境ということになりますよね、政治が国家の壁をつくり、戦争が引き起こされるというのは必然なんでしょうかね。 伊丹堂:それは、それこそ「政治の質」の問題じゃないのかの。ようするにどういう風に他者を配慮する文化なのか、ということじゃな。 獏迦瀬:他の「世の中」をどう配慮するか、ということですよね。これはグローバリズムの問題とからんできますが。 伊丹堂:グローバリズムというにのは結局は「他」の世の中の存在を許さない、ということじゃな。 獏迦瀬:境界をなくしたい…? 伊丹堂:というより、やってることは「他」を滅ぼしたいってことじゃろ。どう考えてもイラクの人を自国民と同じ豊かな生活水準にしたい、つまり同一の世の中としたい、とは考えとらんじゃろ。 獏迦瀬:滅ぼしたい…ですか。そういえば先日、朝日新聞書評で大澤真幸さんの『現実の向こう』という講演集が取り上げられてました(評者・松原隆一郎)。なんでもヨーロッパは普遍的正義を信じていて、「話せばわかる」モダン状況にあり、アメリカは「話してもわかりあえない」ポストモダン状況にあるというんですね。ようするに「話してもわからない」から攻撃するって感覚だというんですね。 伊丹堂:そんなのモダンとかポストとか高級な話ではぜんぜんなくて、単なる幼稚さじゃないのかね~。 獏迦瀬:たしかに…。 伊丹堂:政治の質の問題は結局は国民というか、世の中を生きる人々の意識の問題じゃからな。教育の問題でしかないんじゃが、いまやそれを言うのもむなしいわな。 獏迦瀬:まずは自分の世の中をまっとうに考えなきゃないすよね。 伊丹堂:世の中に生きるのが宿命である以上、それが必然的に伴う「政治」という構造に関心を持って参加するのは、まっとうに生きる人にとっては当然のことなんじゃな。 獏迦瀬:精進しますって、今日は2度目ですね(笑)。 ■プロフィール■(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」
by kuronekobousyu
| 2005-04-01 01:00
| 48号
|
ファン申請 |
||