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■黒猫房主の周辺■
私的言語への感想 黒猫房主 ★先月の「哲学的腹ぺこ塾」では、永井均の最新作『私・今・そして神』(講談社)の読解を中原紀生さんのレポートで行った。思い起こせば、この塾の第1回目は永井均の『<子どもの>ための哲学』(講談社)からスタートしたのだった。最近知ったのだが、「勝手に永井均評論ページ」では、中原さん(オリオン)の論考「「私」がいっぱい」と「哲学的腹ぺこ塾」の1回目と2回目がリンクされていた。この場を借りてお礼申し上げます。 ★その中原さんの長大なレポートや本誌の論考(そのレポートからの抜粋)を読みながら、黒猫は小学校で初めて五線譜楽譜の記法を習い、教師が弾いた(指示した)ピアノの音階をその五線譜に記譜するというテストがあったことを想い出していた。黒猫は教師が弾いたその都度の音階をその都度正確に聞き分けることができたのだが、果たして黒猫のノートに記譜された採点はすべてバツとされた。なぜなのか? ★例えば、黒猫は「ド」の音を聞き分けその音の五線譜に記述すべき位置も識別できたのが、「記譜の仕方=順序」については「私的な規則」に従っていたのである。このことを世間では普通は「誤解」というわけだが、これはクリプキの指摘した「プラス」と「クワス」の事例に相同するだろう。 ★このことを永井は、規則に「私的に」従うことと「私的な」規則に従うことの違いとして説明している。「規則への違う従い方は、提示されたとたんに、違う規則への従い方に変わる。そして違う規則は、われわれにとってどこまでも理解可能なのである」(『ウィトゲンシュタイン入門』p180、ちくま新書)として、「私的規則」のその一例として私的言語はどこまでも可能であると書いている。そのことが『私・今・そして神』における「およそ言語というものが可能であるためには、端的でない私的言語や今的言語は可能でなければならない、とは考えられないだろうか?」(p161)に繋がっているだろう。 ★ここでのポイントは、永井哲学/永井神学における「端的さ=概念によってはとらえられない現実存在=独在的」な在り方である。つまり、「私的に遣う言語=端的な私的言語」と「私的な遣い方の言語=端的でない私的言語」の違いである。この違いが、『私・今・そして神』の3章(私的言語の必然性と不可能性)のテーマであろう。そして「端的な私的言語」は同格の他者という対称性を超えている故に、(中原さんが書いているように)ある意味では「神への祈り」と言えるのであろうが、別の意味では私(たち)には概念化できない故に、どこまでも不可能(語り得ない)なのである。
by kuronekobousyu
| 2005-04-01 00:00
| 48号
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