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■連載「映画館の日々」第13回■
それが物真似であることが私たちにわかるのは ――Emperor in Soclovland(2) 鈴木 薫 よせあつめ 縫い合された国 出雲 つくられた神がたり 出雲 借りものの まがいものの 出雲よ さみなしにあわれ ――入澤康夫「わが出雲わが鎮魂」 陰鬱なソクーロフ世界に拉致された“天皇”(イッセー尾形)がマッカーサー差し回しの車に乗って皇居を出ると、そこは、リアリズムの水準では敗戦直後の日本でも東京でもありえない――「当時」を舞台とした映画やTVドラマで“私たち”が見馴れた「焼跡」風景とはおよそ似ていない、だが、破壊されつくした首都が廃墟と化していることだけは圧倒的なリアリティで示す贋物の世界がひろがっている。建物の残骸に住みついている幽鬼のような人々。『太陽』の皇居の「外」の東京は、一種のパラレル・ワールド、日本が徹底抗戦して本土決戦が現実になった、「間違った世界」(日本SFのパイオニア小松左京の初期作品『地には平和を』はそうした世界を描いていた)なのかもしれない。1945年の日本というより、むしろ冷戦下のSFが描きつづけた終末後の世界――そこはソクーロフによって単純な要素の結合に還元され、組み立て直された「太陽の帝国」であり、人間らしい愛情と機械的な動きに分裂させられた、声を奪われた君主のいるところだ。 イッセー尾形の演技が見事だというのは、この映画について語る者の一致した意見のようだ。顔が似ているわけではけっしてない俳優は、たしかに昭和天皇の外見を巧みに模倣している。それが物真似であることが私たちにわかるのは、むろんモデルのイメージを参照することができるからだ――そして、私たちにそれが可能になったのはそれほど昔のことではない。顔を上げることなく拝するものでこそあれ、「御真影」とはまじまじと見つめる対象ではありえなかったろう。映画の中で潜水艦めいた退避壕に隠れ棲む天皇は、もともとその姿を知られることのない隠れ潜む太陽だった。退避壕内の狭い自室で私的な「皇室アルバム」を“彼”は開き、ひとり自らのイメージを眺めるが、そこでは幼い“彼”がスカート姿で木馬にまたがり、あるいは即位のための装束に身を固めている。立憲君主国としての形式を整えるため“彼”がその役割を演じるべく導入された、西洋の君主の幼年時代のコピー。それは「天皇」をemperorと訳した、根拠のない借り物の地位に他ならないが、考えてみれば「天皇」という地位=名自体、シナの皇帝との差異化のために採用されたものにすぎない。“彼”は国軍の最高司令官であると同時に「国教」の主導者でもあるのだが、江戸時代の彼の先祖たちは仏教徒としての戒名を持っていたのだから、この地位が世襲の伝統などでないことはあまりにも明らかだ。衣冠束帯、軍服、そして来るべき時代における背広に着かえての全国行幸と、“彼”はマスカレードを続けることになるだろう。白馬に乗った大元帥陛下としての姿こそ見あたらなかったが、彼がつれづれに眺めるものの中には、ハリウッドのスターたちの写真もあり、また、デューラーの版画のページもあった。黙示録の四騎士を彼は見つめる。それに乗る者の名は死――阿南陸相(六平直政が熱演)が御前会議で一億玉砕を口にする状況下、彼の乗馬「白雪」は青ざめた馬なのだろうか? やがて、軍服を脱ぎ、背広をまとった“彼”――戦後の“私たち”が唯一知る天皇だ――が「外」へ出ると、ジープで乗りつけたアメリカ兵たちが彼を見つけて「チャーリー」と呼ぶが、それは彼が見ていたアルバムの中にすでにイメージとして先取りされていたものだ。彼らのカメラの前で、“彼”はむしろ進んでこの新たなイメージ化を受け入れるかのようである。 御前会議で阿南陸相は戦争の続行を強硬に主張し、海軍大臣が木のボートでも戦えるというのに対し、「ドイツの軍用犬を使った自爆作戦」を提案するが、“私たち”は「事実」がこんなレヴェルでなかったことを知っている。犬ではなく人間が海でも空でも「犬死に」して行ったことを知っている。空襲が“彼”の午睡の夢のような、焼夷弾を産み落す魚の群れの飛来ではなかったことを知っている。戦争の原因はアメリカが日本人移民を排斥したことにまで単純化される。beastが原爆を落し、とマッカーサーに天皇は言う――私は残虐さを恐れて皇太子を疎開させた。マッカーサーはたじろいで型通り真珠湾に言及するが、まるで待っていたかのように“彼”は「私は命じていない」と応え、あっさり責任回避をなしえてしまう。映画にとってプロットとはフィルムを進行させるための口実だから、このようにわかりやすい筋書はむろん好ましいものである。 マッカーサーが天皇にある質問をしようとすると、二世の通訳はそれが非礼に当たるのを恐れて取り次ぎを拒み、天皇の前で将軍と通訳は押し問答になる。そのとき、“彼”は静かに英語で語り出す――私はドイツ語、フランス語、イタリア語も少し、スペイン語、中国語も話す……。実際に昭和天皇が外国語に堪能だったかどうかなど考えてみたこともなかったが、アメリカ人の女家庭教師がつくようなことはありえなかったにしても、教養として、また欧州の王族との儀礼的なつき合いに必要という理由からも、“彼”が外国語を習得していたとしてもさほど不思議ではないように思われる。しかし、むろんここでは、映画が実在した昭和天皇を忠実になぞっているかどうかが問題なのではない。重要なのは――そして感動的なのは――ここで天皇が「声」を持ったことだ。 声ならば、むろんそれまでにも私たちには聞こえていた。それはいうまでもなく「玉音放送」以来私たちが知ることになったあの声、終戦記念日がめぐってくるたびに「胸の痛むのを覚える」が繰り返されるのを、私たちが今なお記憶にとどめている声、日本各地の行事で「お言葉」を読んだあの調子を真似たものだ。(むろんそのことは“私たち”にしか知られない。)英語を喋り出したとき、しかし“天皇”はマッカーサーに対して、そして日本語を解さない観客に対して、内面を持った主体として自らを開示する。「玉音放送」、すなわち敗戦の瞬間を故意に欠落させながら、戦中と戦後にまたがった時間を描くこの作品の中で、それは“彼”が(御前会議の場面では欠いていた)声を取り戻す瞬間でもある。 ソクーロフに『オリエンタル・エレジー』という作品がある。公開時に見たきりなので細部は忘れてしまったが、監督が日本で撮ったドキュメンタリーにロシア語のナレーションがつけられていたと記憶する。登場する日本人は、当然日本語で喋り、英語字幕がナレーションと日本語音声をカヴァーする。日本語を解する観客には、無名の日本人の喋る言葉はいやでも(いやでなくても)意味を形成し、そのつど字幕の英語との微妙なズレが沈殿してゆくことになる……。ナレーションのロシア語と英語のあいだにも、そうした齟齬は当然ありえよう。しかし、英語はソクーロフも理解しようし、ロシア語を解する人々以外にとってはスタンダードとなる英語のナレーション、および日本語から訳されたものとしての英語の台詞には、映像と同様、隅から隅までソクーロフのチェックが入ったに違いない。ひとり日本語の音声のみが彼のコントロールを最初から離れ、その及ばぬ領域として最後まで残りつづけ、完成作に収まり切らなかった残余としてのノイズを響かせていた。そこにどんな解釈の網がかけられ、そのためどんなニュアンスが失われたかを、ただ日本語がわかる者にのみに聞き取らせていた。 『太陽』にも『オリエンタル・エレジー』同様、英字幕があるものと私は思い込んでいた。だから、『太陽』の上映がはじまってすぐ、日本語の台詞が英語字幕によって秩序づけられず、生[き]のままの響きを聞かせるのみだと知ったときはちょっと残念に思ったものだ。進駐軍から贈られたチョコレートをおそるおそる口にした佐野四郎が「私はあられの方が好きです」とアドリブめいて口にする言葉や、「はい、チョコレートおしまい」と言うイッセー尾形に、“私たち”は編集という媒介なしに耳をかたむけることになる。 “彼”がその声を人々に聞かせることは重要な意味を持つにもかかわらず、「玉音放送」を巧妙にも欠落させた『太陽』の世界では、いわゆる「人間宣言」(実際には1946年1月1日の新聞各紙に載った新年の詔書)をも、録音盤のようなものとして想定しているらしい。「日本人が私一人になる」ことを避けるために戦争を終らせることを決意しながら、侍従長の言葉によってただひとり日本人(人間)ではないことを指摘されるという孤独は、これで終りを告げるはずだ。「私の国民への語りかけを記録してくれた、あの若い録音技師」はどうしたかと“彼”は思い出したように侍従長にたずねる。「自決しました」愕然としながらも彼はさらに問う。「で、止めたんだろうね」いえ、と佐野史郎。子供たちを連れて戻ってきていた皇后(桃井かおり)は一瞬顔を曇らすが、しかし決然として“彼”の手を取り、子供たちの待つ広間へと連れ出す。 『太陽』はこのようにして終る。子供たちとの再会という晴れやかな「外部」にはけっして到達せずに、それは暗鬱な内部で終始する。それは正統的な神話ではなく、あたかも出雲神話のように、統制され、しかもそこからはみ出たものだ。ソクーロフが現出させたはじめと終りのあるフィルムというかりそめの統一は、古くは土人の首長が大陸に倣い、近くは西洋に習って作り上げた「伝統」に似ている。疎開させている皇太子に“彼”が書く手紙は「愛する息子よ」ではじまっている。日本語の使い手がわが子への手紙をそのような言葉によって始めることはありえない。西洋語からの翻訳としてのその言葉を、日本語を知らぬソクーロフが、台詞として俳優に発声させてしまうことはまだ許されよう。だが、イッセー尾形は、墨と筆で紙に書くという“伝統的”な身振りで堂々とそう記す――愛する息子よ。この贋物の現前もまた、“私たち”にしか知られない。「愛する息子よ」がヨーロッパ語に訳しもどされて字幕としてあらわれるとき、それはこの上なく自然なものとして彼らの目に映り、ノイズは感知されず、ヒロヒトは彼らと変わらぬ一人の自然な「父」として受容されることになるだろう。 「録音技師」は“彼”の声が無防備に人々の前にさらけ出されるのに堪えられなかった。なぜ? たぶんそれは、声が(そして「愛する息子よ」と筆で書かれたエクリチュールが)“彼”の「似せもの」性をあらわにしてしまうからだ。“彼”が純粋な黄金ではなくその反対物であること、映画というものが監督ひとりで作るものではなく、作者のいない引用、かりそめの統一しか持たぬ、意思を欠いたつぎはぎの世界であるように、“彼”が「借りもの」で「まがいもの」であり、今また、与えられた新たな役を演じようとしていることが明らかになってしまうからだ。 よせあつめ 縫い合された映画 つくられた神がたり 借りものの まがいものの 映画よ それが「さみなし」であることを祝福しよう。 ■プロフィール■ (すずき・かおる)前回の続きは延期とし、ひとまず映画の話に戻りました。どうも語りそこなっているようですが――しかし、ロラン・バルトも言うように、愛するものについては必然的に語りそこなうということで――。なお、Emperor in Soclovland(1)は拙ブログ「ロワジール館別館」にあります。 ★ブログ「ロワジール館別館」 ★「きままな読書会」★「Tous Les Livres」
by kuronekobousyu
| 2006-11-01 01:30
| 67号
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