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■連載「映画館の日々」番外編■
うたかたの日々 鈴木 薫 ■某月某日 池袋でYKさんと待ち合せ。目的の某所へ行きつけず、駅東口にある「タカセ」の上階へ昇ってお茶。一階でパンを買ったことはあるが、中で飲み食いするのははじめて。東口をその位置から見下ろすのはむろんはじめてだ。過日、親戚の法事で池之端の東天紅最上階から蓮池を見おろしたときも、よく知っている場所ながら、そうやって眺めるのははじめてだった。小雨の中、茂った蓮の葉が波打つ。子供の頃は、西武デパートが屏風のようにそびえ立つところが世界の果てだった。最初はトロリー・バス、それが廃止されてからはバスで行った。たぶん、母がひとりで行ける盛り場が上野と池袋に限られていたのだろう。一度、帰りのバスの停留所の場所が変わっていたことがあって、寿司屋の小僧らしきアンチャンに母が「かみなり門へ行くバスはどこですか」と訊くと怪訝そうな顔をされ、「浅草の雷門行きの」と母がもう一度言うと、「ああ、あさくさらいもん?」と教えてくれて、有り難かったからその場では笑いをこらえていたのだが、そんなことのあったのはあのあたりだったかと見下ろしても、浅草方面へ行くバスは今はそこからは出ていない。パルコは前はマルブツと言ったのよ、とYKさんが微笑を浮かべ、それは私も覚えているが、丸物で売っているものは西武とはまた違っていて好きだったとYKさんがいう、そこまでは年齢的に覚えていない。少し大きくなると、母の買い物のあいだは本売場で待っていたものだが。といっても、そのとき思い出しているのは上野松坂屋の本売場であり、西武ではないのだ。 映画化されたものは見ていないが、『ダヴィンチ・コード』の原作をTKさんは翻訳で読み、「そこまでホモが嫌いか?」と思ったそうだ。どういうことなのかと尋ねる。ヨハネによる福音書を読めば、イエスが愛していたのはヨハネであることは明白なのに、それを無視して異性愛関係にしてしまうところがホモフオビックだという。確かに、こうした改竄は歴史ものを映画だのテレビだのがやるときの通例だ。熱狂的な女性信者があれだけいたのに(と彼女は見てきたようにいう)、それでも誰とも関係を持たなかったのはゲイだからよ、とYKさん。最後の晩餐でヨハネはイエスの胸にもたれていた。プロテスタントの信者であるYKさんでなく私がそれを知っているのは、塚本邦雄がさんざん書いているからだ。塚本にはイエスの伝記小説もあることを思い出し、YKさんに披露する。彼女が言うには、しかし、それを上回る設定の映画が以前作られ、イタリア全土で上映禁止になったという。これは初耳だった。イエスがヨハネに心を移してユダを捨てたので彼は師を裏切ったと、はっきり描いているという。ローマ教皇庁が今回の映画をそうしないのは、本当のタブーは同性愛だからよ。イエスがゲイだったら、修道士に同性愛を禁止する根拠はなくなっちゃうもの。なるほど。イエスが女と寝て子供を作ってうんぬんなら、全くの絵空事だから、逆に危険はないわけですね。さらに、イエスには他にきょうだいが何人もいたのに、イエスの母をヨハネが引き取って面倒を見ているのは、そういう関係だと周囲も認めていたからだというのがYK説だ。そうか、ヨハネは『東京物語』の原節子なのか(引き取ってはいないけど)。 ■某月某日 読売からもらった招待券があるので、SMさんを誘って、東京都美術館で開催中のプラド美術館展へ。ひとりだったら人垣の中へもぐり込んで見る気にならずに出てきてしまったろう混雑。絵の中の大群衆に見入って、ふと見渡せばそれにまさる数の入館者がその室内だけでもいそうな感じ。話しながらけっこうじっくり見られた。SMさんは東京の混雑する展覧会自体はじめてという。上野駅舎のコカ・レストラン(前に一度だけ来たことがあったが、良い)で昼食後、電車で日暮里へ移動。谷中の朝倉彫塑館でゆっくりするつもりだったが、行ってみると金曜日は休館! 月金と週に二度も休みとは気づかなかった。再訪しようとしてなかなか果たさぬ場所である。三の丸尚蔵館の若冲展も金曜日は休みだ(これは、うっかり行ってしまったことがあって覚えた)。しかたがないので団子坂下へ歩く。私の方向音痴はとどまるところを知らず目的の喫茶店へ行きつけなかったが、新しくよい場所を見つけた。駅舎をうまく利用したコカ・レストランもそうだが、適当な(作り込まない)レトロさが好ましい。冷房利き過ぎなのではおるものが必要だが(SMさんは用意がいいこと)。 ゲイ男性が女言葉を使うのはミソジニ-だという意見をどう思うかとSMさんに訊かれる。その場の雰囲気を和らげ(特に、キツイことを言うときなどに)、攻撃されるのを避けるため、かえってそういう言葉をゲイの男が使う場合について、そう言った女性がいたという。それをミソジニーと呼ぶのはちょっと違うような気がするけど、と私。オスザルが上位のオスに対し、メスのポジションをとってマウントさせるみたいな? これは以前某所で話したことだけれど、と前置きして『ジェンダー・トラブル』でバトラーがあげている例を出す。ゲイ男性が自分のことを「彼女は」と表現した貼り紙についての話で(バトラーの本が手許にないので、あやふやな記憶で言う)、「女性」が女性とは別のところで反復されるこうした使い方を、女性性の本質化を避けるずらしとしてバトラーは肯定していたように思う。それに対して私が取り上げたのはピーコの例である。爆笑問題の番組にゲストとして招かれたピーコは、「ピーコさんてほんとに女なんだね」と爆笑問題の二人に言わしめていたのだ。しかもその中味は、性に対して受動的な女、セックスより、好きだという気持ちの方が大切といったものであった……。男性が女性性を流用することは、しばしば規範の強化として抑圧的に働くのではないか?(ニューハーフが女性たちに女の道を説くという見るも無惨な番組もあった。)だからそうした効果はアンビヴァレントだ。別にピーコ自身が「女」としてのポジションをとるのはちっともかまわない(本人の自由であるから)のだが、彼がTVでファッション・チェックをすることを許しているのは、彼が「男」である特権を手放していないからこそだ、というようなことを話す。ピーコの場合を離れても、男が女性性を流用することはしばしば彼を完全なものにする★。女の場合はそうではない。歌舞伎の女形は本物の女性性を表現できるとされるが(ということは、女性性が本質的にフィクションだということだろうか?)、宝塚の男役についてはそうは言われない。彼女たちは本当の男を表現するにはつねに何かが足りないと見なされるのだ。 SMさん、東京の空気の汚れに反応してすぐ苦しくなってしまうが(こっちはびっくりだ)、谷中の墓地以外に附近には緑多いところもないので、坂を戻って池之端へ抜けることにする。法事の際、谷中のお寺から車でたどった道を徒歩で。観光客をねらって小ぎれいな店鋪に改築した家が目立つ。ソフテルというのだったか、ピラミッドを積み重ねたような本郷側に立つホテルをSMさんおかしがるが、私はむしろあれはもう見なれた。白鳥のボートはまだ見なれない。過日小雨ふる蓮池(花はまだ)が広がるのを見下ろした風景の中を小人になったように歩いてのち帰宅。 ★ たとえば、レオ・ベルサーニの『フロイトとボードレール』(十年前に買った本だが、ベルサーニのFreudian Bodyを読んだためにわかりやすくなった)を読んでいて次のような感想を持った。ボードレールの人も知るミソジニ-――「女は腹が減ると食べたがる、喉が渇くと飲みたがる、さかりがつくとされたがる(……)女は自然である。ゆえに忌まわしい」について、ベルサーニはそれを女についての言説とは見なさずに、「詩人」としてのボードレールがわが身に引き受けねばならぬ、またそれを恐れてもいる、それゆえ「女」に投影せねばならぬ特質として扱う。これは正しいと思うし、詩人の散文を字義通り受け取って存在論的な女についての箴言と見なし、ありがたがってきた(「ボードレールと性を同じうし」という矜持のもとに女を他者化して)、あまたのヘテロ男性ボードレリアンのたわごとを一掃するに十分だが、同時に私たちは(それでは女はどこに?)と問うことにもなるのだ。 ■ プロフィール■ (すずき・かおる)絶不調です。もともと書きたいことが内部にあるわけではありませんが、空っぽ状態に。身体的には元気なのですが、あまりにもニュートラルだと(それを乱すものはいずれやってくるわけですが、今回間に合わず)、書けない。むしろうちで梅でも漬けたい気分(やったことありませんが)。というわけで、成瀬シリーズの締めくくりも(また)先延ばしになりました。 ★ブログ「ロワジール館別館」 ★「きままな読書会」http://kimamatsum.exblog.jp/ ★「Tous Les Livres」http://d.hatena.ne.jp/kaoruSZ/[新設]
by kuronekobousyu
| 2006-07-01 01:30
| 63号
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