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■連載「映画館の日々」番外編■
長い髪の少女あるいは同一化の欲望 ――やまじえびねのレズビアン・コミックについて 鈴木 薫 やまじえびねのレズビアン・ストーリーといえば、代表的なものとして『LOVE MY LIFE』(2001年)と『インディゴ・ブルー』(2002年)が挙げられよう(*)。ウェブで見るかぎり、洗練された無駄のない線がつむぎ出すよく練られたプロットと丁寧な心理描写で、等身大のレズビアンを描いていると好評のようだ。現実はこんなふうにうまくはいかないという声もあって、それもまた理解できる。『LOVE MY LIFE』は、十九歳のいちこが父に恋人を紹介するところからはじまる。相手が女子学生だったので父はびっくりするが、それをきっかけに、父には男の恋人がおり、いちこの亡くなった母もレズビアンだったとわかる。エリーこと英理子は、男性優越主義者の父を見返すために弁護士になろうとしているが、司法試験を控えて勉強に集中すべき時期が来て、いちこはエリーと会えなくなる。そしてやってくる思いがけない形でのハッピーエンド。二人の外見を紹介しておくと、いちこはちょっと癖のある髪を頭にぴったりした帽子のように短くしていて、年上のエリーは真中分けのストレートの髪をあごの高さで切りそろえている。 『インディゴ・ブルー』は、よりリアリズム的と見られうるのだろう。若い小説家の路都(ルツ)は、学生時代の先輩であり今は出版社に勤めていて自分の担当になった龍二とつきあっているが、本当に恋したことのあるのは女性だけだ。環との出会いによって、彼女は龍二に別れを切り出せないまま二股かけることになる。環にそれがばれて交際を絶たれそうになるという危機を乗り越え、龍二ともきれいに別れて、これもハッピーエンド。環はsa vieを毅然と生きており、別れようとするときもルツに未練を見せない(いささかカッコよすぎ)。環の髪型はいかにもタチのベリーショートで(輪郭の中が黒く塗りつぶされている。いちこの髪が白いままでヒヨコみたいなのとは対照的だ)、ルツの方は襟足までのスタイリッシュなショート。龍二もできた恋人で、家庭や子供を望むのではない、ただそばにいてほしいだけだとルツにプロポーズする。しかも、ルツの友人の画家であるもっさりした伝さんが、「伝さんよりルックスが劣るから」会わせたくないと言われたあとでルツと一緒にいるところを見かけて鼻白むイケメンだ。脇役たちは『LOVE MY LIFE』でも的確に配されていて、いちこの母のかつてのガールフレンドの現在の相手は、額に深い傷のように皺と年齢を刻んだ女性だった。 『インディゴ・ブルー』は、『LOVE MY LIFE』のあと、大人の女性を主人公にもっと男性の絡む話をと編集者に言われて描いたとあとがきにある。作品にとってそのことはけっして悪く働いていない。同性愛ものはハッピーエンドで終らないと言われた時期があって、実際、ハリウッド映画に出てくる同性愛者たちは不幸な運命しか持てないという時代が続いたのだし、少女マンガでは先駆的なレズビアンものである山岸凉子の『白い部屋のふたり』も典型的な悲劇だった。東京レズビアン&ゲイ映画祭でハッピーエンドのレズビアン映画が上映されると、二人が死なないところがいいと、ことさら言う声が聞かれたものだ(だが、異性の恋人たちが死んで終る物語ならいくらでも数えあげることができ、私たちは長年それによるカタルシスにひたってきたというのに、同性の場合だけそれを忌むのはかえっておかしな話だろう)。『インディゴ・ブルー』にあるのは、ありきたりでない展開、すぐれた絵の技術、納得のいく心理描写、そして多少の理想化だ。しかし、それだけならば、あえてここで取り上げることはなかったろう。今のように見るからに手だれの作家になる以前にも、彼女には多くの作品があり、すでにそこには女同士の愛憎がきらめいていた。そうした萌芽は、松浦理英子の短篇『乾く夏』にインスパイアされ、発表を予定しないで描かれたという「夜を超える」(2003年に同名の短篇集に収録、執筆は1991年)に結晶している。 後年の作が都会の〈マンション〉住まいの女たちにふさわしく、無機的でシンプルな線で構成されているのに対し、「夜を超える」の絵柄は少女マンガのそれで(当時の彼女はいろいろな絵柄を試している。一作一作絵が違う、岡田史子のように)、描線は植物的に丸みをおび、髪は一本一本書き入れられている(エリーやルツの髪はもっとあっさりと線が入れられている)、西洋風のインテリアや街並みはリアルな日本からほど遠い。そして野外の場面では、草や木の葉の描き方が(そして人物も)大島弓子を思わせる。幕開きの場面で、白布を掛けた大きな肱掛椅子を一つずつ占領しているのは、リストカット癖のあるエキセントリックな美少女・香織と、友だちの沙英だ。彼女は、香織の前の恋人・井波とつきあうよう、香織にしむけられている。松浦の読者にとってはおなじみのシチュエーションだ。香織にとって、男はセックスの相手以上のものではない。そして沙英の方は、月経はあるものの手術によらなければ性交不能の身体らしい。二人の少女にとって重要なのは、結局のところ互いの関係なのだが、しかし彼女たちはストレートに(?)同性愛の関係には入ってゆかない。直接触れ合うことなく、男を介在させている。性を逆転すれば、これはホモソーシャリティという名で広く知られた現象だ。女の交換は普遍的だが、しかし、女による男の共有は文化の中に存在しない。 ありうべき誤解は、これを、『LOVE MY LIFE』や『インディゴ・ブルー』へ至る以前の未熟な段階と見なすことだ。女同士が堂々と愛しあうことができず、異性愛のかげに隠れている。そう考えること自体、ある意味で倒錯的と言えよう。なぜなら、規範の枠組によるなら、女同士で愛しあうのは未分化で幼児的な段階にとどまることであり、男女で性行為を行いうることこそが成熟のしるしであるからだ。しかし「夜を超える」の少女たちは、女同士の性行為に至り得ないゆえに未成熟というわけではなく、すでに異性愛に地平線まで踏み固められた世界において、ペニスの介入なしでは性行為がありえないという規範〈後〉を生きている。それゆえ、直接触れ合わずに迂回する。むろん、男など介さず直接触れ合ったほうが気持ちいいに決まっているが、しかし、自らをレズビアンと呼ぶことに疑いを持たない女たちが登場する後年の作品が失ってしまったものが「夜を超える」にはあるのだ。 ヘテロセクシュアルの女とは男を欲望する女ではない。また、男と寝て快楽を得ている女でもない。女同士の快楽を信じられない女だ。荷宮和子が《「女=たとえ好きな男が相手でも、セックスで満足できるとは限らない身の上に、自身には何の責任もないまま生まれてしまった生き物」に比べれば、「男=射精さえ出来れば満足出来る、すなわち、何「の努力もしなくともいい思いをすることが出来る体に生まれた生き物」は、生まれてこれただけで僥倖に恵まれていると言える訳であり、ゆえに、女である私は、「男に生まれてきた」という理由だけで、十分すぎるくらいに男が憎いのである》(「大航海」No.28 新書館、2006)と書くとき、すべての男女が実際にそうであるかは問題ではない。彼女はただ、ヘテロセクシュアルの女の絶望を語っているのだ。 にもかかわらず、ヘテロセクシュアルの女は、女同士の関係をどこまでも性的ならざる結びつきとしか見ることができない。それを、男との性交に較べたら取るに足らないものと考えることしかできない。彼女たちが想像することのできるのは、男に絶望した女たちの傷の舐めあい、政治的レズビアン、シスターフッド、女縁。せいぜいがそんなところだ。あるいは、男の表象を中心にして、手の届かない男に共通の関心を持つて女たちが群れつどう、脱性化された世界の気の抜けたソーダ水のような味わいをレズビアニズムと取り違える。宝塚。ヨン様。やおい? そもそも男の表象なくしてはセクシュアリティは作動しないのだから、そういった女同士の二次的な関係すら、男という求心力を失えば不可能になると彼女たちは考える。 ヘテロセクシュアルの女とは男を欲望する女ではない。女の性的表象に性的昂奮を覚え、それをおのが身に引き受けようとする女だ。享楽を得る女へのナルシスティックな同一化。女の表象が享楽のしるしである私たちの文化において、それは男性主体には公式には許されていないものであり、また、男が女を欲望するように女が男を欲望するのではないヘテロセクシュアルの女の欲望が、レズビアンの欲望と区別がつかなくなるかもしれない一点でもある。香織は沙英を、現在のボーイフレンド湯本とのドライヴに誘う。三人でドライヴしたいと彼が言ったというのは沙英自身も思うようにたぶん嘘で、湯本にとって沙英は香織との男-女関係にとって余計なものだ。湯本にうながされ、香織は30分だけと彼と一緒に姿を消す。そして後刻、それでも平気なのかと沙英をなじり、「湯本なんか死ねばいい」と口にする。「人を物みたいに扱って」。しかし別れるのかと沙英が問うと、「別れたら二度とつかまらないわ あんな好色」と答える。香織が湯本と旅行に出ると、香織の前のボーイフレンド井波の部屋で、沙英は井波に香織のように愛される。「過去の男たちとは比べものにならない」闇の中で沙英は呟く。「彼はこうして香織と幾晩もすごしてきたのだ」。彼女の快楽、彼女として感じること。次のコマで闇の中に横たわるのは沙英ではない。顔の上半分に髪がかぶさり、唇を開いた香織の傍には、「香織になったような気がする」と文字が白抜きされている。 胴体だけの金色のマネキン人形――なまめかしくかつストイックな――そのようなとして香織が沙英を見ていることが、それ以前に沙英と井波のあいだで語られていた。彼女の身体的な欠陥――それともそれは、『親指ペニスの修行時代』のヒロインにおける足指の欠陥に似て、彼女のセクシュアリティを(非本質的な)異性間性交におさまりきらないものにする「過剰」なのだろうか?――が男性器の侵入をはばむ。朝帰りした沙英は、湯本との旅行を中止して戻った沙英を自宅の前に見出す。今まで井波のところにいたことを告げ、沙英は彼女を置いて中へ入ろうとする。井波との性交の成就(の誤解)、彼女がもはや金色のマネキンでないかもしれないことは、香織に自殺を図らせるほどの衝撃を与える。二人の関係をシスターフッド的なぬるい一般化から遠ざけるのは、この強度にほかならない。 『インディゴ・ブルー』では、女同士がはっきり身体を重ね合わせると同時に、男より女を選ぶのはなぜかが真剣に問われることになる。なぜ龍二では満足できないのか。男と「して」も気持ちいいけれど、女でなくては愛せないとルツは考える(セックスがタブーでなくなって以来、最後に担保されるのは愛だ。龍二は愛せなかったが、環によって自分が人を愛しうるとわかったとルツは言う)。十六歳からレズビアンとして生きてきた環は、捨てるものも大きいのによく選んだというルツに、何も捨ててはいないと反駁する。男とつきあえないから、男に愛されないから、男とのセックスがよくないからレズビアンに走るといった浅薄な見方は、ここでは完全に否定される(むろんそれは否定されるべきだ)。龍二とのセックスもよかったことが、科白として彼に告げられる。三人の関係をリフレクトするルツの小説は完成し、彼女の担当を龍二は離れる。やまじえびねの描線のようにすみずみまで神経が行き届いた、誰も傷つけることのないやさしい世界。そして世界は(『LOVE MY LIFE』同様)美しい一冊の書物となって終る。 「夜を超える」やその他の先行作品にはあって、近年の作品からは消えたもの、その中で誰の目にも明らかなものを一つ挙げよう。それは相手役の女の長い髪だ。香織の元カレに「され」ながら、闇のなかで沙英が思い浮かべる香織の顔を覆っていた長い髪(もっと前のページで、それは生き物のように宙に躍っていた)。「封印」(『夜を超える所収』、初出は1992年)では、画家カティアの「ただの女友達ではない」ジーナが、長い髪を真中で分けていた。うつつには拒みながら夢遊状態で魂は男に会いに行っていたジーナを、絵の中に封印しようとして、実在したレズビアン画家ロメーン・ブルックスと同じポーズ、同じ構図でカティアは描いている。絵柄は違うが、また長い髪ではないがエリーも真ん中分けだ(ちなみに、香織は前髪を切りそろえている)。いちこに対しては年長の経験者としてふるまうエリーのフェム性は、元ボーイフレンドと偶然遭遇した直後、彼とのセックスで感じるエリーを思っていちこが欲情するというエピソードであらわになる。対して『インディゴ・ブルー』では、環が昔寝たことのある男の話をし、ペニスを入れられること自体が気に入らないと言い、相手の男にお尻に指を入れさせてと頼んだらとんでもないと怒り出したと言ってルツを笑わせるが、ルツを(そして私たちを)欲情させはしない。彼女は、ペニスでしか感じない男並みに同一化の欲望をそそらない女なのだ。 真ん中で分けた長い髪は、「美雪」(『スウィート・ラヴィン・ベイビー』所収、初出は1993年)の主人公が惹かれる、いつも黒い服の「尼僧のような」美術学科の学生、美雪の特徴でもある。映画学科の美しい男子学生と彼女が話しているのを見て、「これが現実?」とヒロインは自問する。しかし、最後には、美雪に話しかけると、今度自分と同じ文芸学科に移ることを告げられ、いつも私を見ていたでしょうと言われ(谷崎の『卍』の二人の出会いのようだ)、男と一緒にいる美雪を見てどういう感情を持ったかを言わされ、ついに彼女への欲望までを告白させられる。そして、「あなたがしてほしいことはなんでもしてあげる」という信じられない応えが返ってくるのだ。これはとうてい現実ではない――幻覚的な願望成就だ(だが、それが彼女の妄想であるとはどこにも語られていない)。政治的に正しいハッピーエンドとは性質を異にするこの穏やかな結末は、皮肉にも、作家に作品を(マンガや小説を)可能にするのと同じ種類の欲望に支えられている。 フロイトは規範的な性愛しか認めなかったと主張する、フロイトを読んでいないフェミニストたちがいる。だが、実際には、規範的な性愛と逸脱した性愛と言われるものとのあいだに本質的な違いはない(どちらも性器的体制に統御されている)とフロイトは考えたのだ。しかし、違いは本当にないのだろうか。たとえば私はロラン・バルトについてスーザン・ソンタグが書いている、「倒錯は解放する(Perversion liberates)」(**)という言葉を思い出す。もっともソンタグは、バルトはそういう「古風な」考えを持っていたという、肯定的とはいえない文脈でそう述べているのだが(”Under the Sign of Saturn”)。しかしそれはけっして古風な考えなどではない。問題は、それをどう表現するかということだ。違いがないとひとたび断言したあとにすべきは、ともに規範に入ることではない。さらに逸脱しつづけることだ。 「夜を超えて」は、女装した老いたローラースケーターが深夜の路上を素晴しいスピードで駆け抜けるのを、二人の少女が目撃するところで終る(今回、『乾いた夏』を読み返せなかったが、この老人は原作にあったと思う)。「生と性を超えた」超人と彼は呼ばれる。しかしこれは言葉だけのスローガンにとどまり、それ自身にさほど魅力も感じられない上、やまじえびねの以後の作品に引き継がれてもいない。美しい書物は破り捨てよ。やまじえびねには規範を超えてほしい。 *以下で言及するやまじえびねの作品はいずれも祥伝社から出ている。 **原文は“It liberates”だが、邦訳版『土星の徴しの下に』(晶文社 1982)はこの”It”を「文学」と訳していた。単純な先行詞の取り違えだと思うが……。あるいは翻訳者には、「倒錯が自由にする」などという発想は思いもよらなかったのかもしれない。 ■プロフィール■ (すずき・かおる)成瀬あと一回で終りにと思いつつ先延ばしに……。本当は『セックス・チェンジズ』の書評を書かなくてはならないのですが(某所で、近いうちここに書評を載せるとふれてしまったもので)。それを覚えていて来て下さる奇特な方(おられたとして)に満足していただける内容だったかどうか……。今回、記憶だけで書いてあとからマンガを参照すると間違いだらけなので、訂正せざるを得ませんでした(成瀬は見直せないので、その点楽かも……)。次回できっと……いえ、たぶん、完結させます。★ブログ「ロワジール館別館」
by kuronekobousyu
| 2006-03-01 01:30
| 59号
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