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■連載「映画館の日々」第11回■ 成瀬巳喜男の日々の砕片(2) ―― 物語に抗して 鈴木 薫 前回ちょっと触れた『三十三間堂通し矢物語』(1945)のクライマ ックス、若者が次々と放つ矢が的に当るか外れるかの繰り返しという、基本的には単調な(見物人の反応もむろん描かれるものの)場面を、成瀬は音を使って巧みに構成しています。矢が命中すると太鼓が打たれ、逸れると鉦が鳴らされる。よく響くその音は家にとどまっている田中絹代の耳にも届くので、彼女は気が気ではなく、ついに通し矢が行われている三十三間堂へ駆けつけるのです。 これがサイレントの技法を継承したものであることに私が遅まきながら気づいたのは、『腰辧頑張れ』(1931)を見たときでした。家賃を取りにきた大家を避けて父親が押入れに隠れると、そこには一足先に幼い息子が入り込んでいます。飛行機を下から見上げた映像が一瞬インサートされ、押入れの中の子供がそれに反応する――この映画はサイレントなのですが、観客はこの瞬間、頭上を通過する飛行機の爆音を本当に聞いたように感じます。あの飛行機は誰かの視点によるものではない――押入れの中にいる子供にはむろん見えるはずがなく、ただ聞こえただけなのですが、私たちもまた映像のせいでそれをともに聴くのです(子供は飛行機見たさに押入れから出ようと暴れ、襖がはずれて、結局父親は大家に見つかってしまいます)。 『通し矢物語』のあの場面は、だから、考えてみれば絶対的に音を必要とするものではないのでした。鉦や太鼓が叩かれる映像に、田中絹代が何らかの身振りをしている映像が接続されれば、それだけで、彼女にそれが聞こえているのだと私たちは思い込みます。本来別々の映像の砕片[かけら]が、モンタージュにより相互に関連づけられるのです。 こうした画面つなぎに役立つ技法とはいささか異なる、画面に同調しない音、物語のなめらかな外皮に罅を入らせる異物としての音の使用が際立つ例として、『女の中にいる他人』(1966)が挙げられましょう。成瀬の終りから三番目の、すでにカラーとワイド・スクリーンの時代にあってあえて白黒スタンダードで撮られたこのフィルムは、犯人が(ほぼ)最初から明らかな倒叙ミステリで、しかも、彼が周囲の人間に犯行を告白しても相手にされないアンチ・ミステリでもあります。しかし、通常は、(成瀬作品としてもサスペンスとしても)異色のサスペンス映画ということになるのでしょう。 この映画は、情事の最中に相手を誤って殺してしまった小林桂樹が主人公ですが、タイトルを卒然と見れば、夫の殺人と自首の決意を知り、子供たちの将来のために彼を殺す、新珠三千代が中心であるかのようです。藤井仁子は『成瀬巳喜男の世界へ』(筑摩書房)所収の論文「映画の中にいる他人」で、小林が本当に殺人を犯したのか、新珠が本当に夫の飲み物に毒を入れたのかは確定できないと述べていますが、小林が殺人の状況を物語るナラタージュ(登場人物のナレーションとともに現出する、一種の回想シーン)が事実の客観的な再現とは限らないとしても、新珠は最後にナレーションで饒舌に語るので、少なくとも彼女の夫殺しは事実として示されていると見るべきでしょう。ミステリあるいはサスペンスとして物語を消費したい観客を満足させるだけの辻褄合わせはなされていると考えられます。『女の中にいる他人』は、ある見せかけとしてのジャンルにおさまることで、逆説的にその中で最大の冒険を可能にしたフィルムと言えましょう。(註1) もともと成瀬の映画では、生活音が実によく聞こえてきます。日本の伝統的家屋の開放性にそれが由来するという指摘はもっともで、『流れる』(1956)について、「いかにもこの町らしい、洋食屋風の喫茶店での栗島[すみ子]・山田[五十鈴]の会話の背後に、豆腐屋のラッパや〈バタバタ〉と呼ばれた当時の乗物の音」が聞こえる、「家の中が往来のつづきででもあるかのよう」な「下町風俗」と、。自らも下町生まれの小林信彦は、それをリアリズムと見なす視点から証言しています(「映画『流れる』--架空世界の方位学」『昭和の東京 平成の東京』ちくま文庫)。けれども、下町ではない場所にも音は入り込んでくるのであり、それはしばしば暴力的な侵入となります。前回の終りに挙げた『晩菊』(1954)では、冒頭で表通りを走り回る宣伝カーの喧騒から離れたキャメラは、遮断された一種の安息所としての杉村春子の住いに入り込みます(彼女が使っている女中さえ、そこでは、言葉を発することがないという理由で――余計なことを外で喋られないからと杉村自身は言いますが――選ばれています)。しかし、元芸者である杉村を若い頃無理心中で殺しかけた男の訪問により、それもはげしく玄関の戸を叩くというやり方で、この静寂は破られます(皮肉なことに、杉村が待っていた男、上原謙が訪れたとき、耳の聞こえない若い娘は彼になかなか気づきません)。 これが『妻として女として』(1961)になると、のっけから、リアリズムでは全く説明できない音が、幸福な家庭のただなかに入り込んできます。淡島千景は星由里子と大沢健三郎の一女一男を森雅之との間に持っているのですが、実は彼らは二人とも、森の愛人、高峰秀子の産んだ子です。映画がはじまって間もなく、家族四人が仲良く団欒する場面で、遠く警報機の鳴る音が聞こえてきます。この線路は、あとになって、彼らの真の関係がすっかり明かされ、幸福な家庭の幻影が崩れ去ったとき、家を出て姉弟が歩いてゆく先に現実のものとして現われるのですが、大沢少年が『女の座』で鉄道自殺をすることや、『乱れ雲』での警報機と赤いシグナルの不吉さを思いあわせて、観客は一瞬、彼がそこに飛び込むのではないかという懸念に胸をよぎられます。実際には、『女の座』が撮られたのはこの翌年ですし、『乱れ雲』(1967)はいうまでもなく成瀬の遺作ですので、当時の観客はそんなことは思ったはずもないのですが。近くに線路があることは、このときもこれ以後も、物語に何一つかかわってきません。たんに監督の何らかの記憶が、ここで警報音を響かせたということなのでしょうか――ボヴァリー夫人が情夫と走らせる馬車に養老院の傍を通過させながら、少年時代の記憶の中の、養老院の庭の情景をそこに書き加えたフローベールのように。(註2) 『女の中にいる他人』に戻りますと、この映画は殺人を犯した直後の小林桂樹が(むろん観客はまだそのことを知りません)路上に佇んでいるのを、私たちが見出すところからはじまりますが、このときすでに画面はノイズに満たされています。むろん、都会の道路が耳ざわりな音で充満しているのはごく自然なことと言えるので、車も人もさして見当たらないものの、それを気にとめる観客はいないでしょう(ただ、路面が濡れていることと閉じた傘を持った通行人が傍を通り過ぎるのは伏線で、このあと執拗に降る雨を私たちは目にすることになります)。小林が路傍のビアホールに入ると、ノイズは遮断されます。しかし代わって、すぐにガラス張りの壁の向うに友人の三橋達也が現われ、小林を見つけて親しげな身振りをして入ってきます。代わって、と言いたくなるのは、小林の挙動のはしばしから、この男に会いたくなかったということが明らかにうかがえるのに加えて、この映画を最後まで見るならば、小林の留守中に大きな音の出る玩具を持って彼の子供たちを訪れる三橋もまた、外部から入り込んでくる一種のノイズではないかと気づかされるからです。また、小林の勤める会社は、隣のビルが工事をしており、窓を開けると騒音が入ってきます。これはもう、リアリズムでも何でもない、〈聞こえている音に気づかせる〉ための仕掛けとしか思えません。 翌日からは雨が振り出し、外から内への絶えざる浸透を思わせる雨は、小林の自宅の窓ガラスを、また、三橋の妻の葬儀が行われる、葬祭場の待合室のガラスを濡らしつづけますが、これには梅雨の時期であるという合理的な解釈がなされるでしょう(物語の終りは花火大会に設定されています)。しかし、雨はもちろん、工事現場の騒音さえ、窓を閉めれば遮断しうるのに、小林が帰宅してみると、そこには三橋が騒々しい音を立てる玩具で、彼の子供たちを遊ばせているのです。実は小林が殺したのは三橋の妻であり、警察にも真実が突き止められない中、堪え切れずに三橋を訪れて小林は告白します。この場面では、相対する二人の背後、あけ放たれた窓の向うに見える隣家の、これも開いた窓の中に、ゴーゴーを踊っている若者たちの姿が見え、騒音が響いてきます。閉ざされた二人きりの告白の場であるべきものが、ここでもまた、ノイズに/へと、開かれ、浸透されているのです。この告白にもかかわらず、三橋は一方では小林の行為を見過ごそうとし、他方では〈内〉へ入り込んで、夫婦の留守中に急病になった息子の命を救い、おもちゃの消防自動車のノイズを響かせます。 『女の中にいる他人』の終り近く、小林の自宅の階上の窓の外には、夥しい花火が打ち上げられています。言うまでもなく、これは〈内〉への激しい音と光の侵入でもあるわけです。一方、会場でそれを見上げる、小林の子供たちおよびその祖母の顔と花火の映像は切り返され、花火を見て彼らが顔を輝かせていることが示されます。闇を彩る白くまばゆい光。同時に室内では、小林と新珠の最後の対決が行われています。ここに至るまでに、実は光と闇との対比は至るところで示されていました。ビアホールで出会った夕、三橋の妻に異変があったことが知らされたあと、帰宅した小林がそうした話を妻にしながら家族に背を向けるとき、その顏は半ば闇に浸されます。スイッチで部屋の一部を明るくしたものの、また消してしまう小林。そこへ近づいてきた新珠の、白いたまご形の顔もまた、一瞬闇に沈みます。彼女が夫の共犯者なること、今はまだ打ち明けられていない罪を、あくまでひた隠しに葬り去ろうとするであろうことは、このときすでに予告されていたのかもしれません。 妻に対する小林の一度目の告白(浮気の告白)は、停電と、新珠がともした一本の蝋燭という、まさに光と闇のコントラストそのものの中で行なわれ、二度目のそれ(殺人の告白)は、神経衰弱になって湯治に行った小林と、後から訪ねた新珠が、散歩の途中入ってゆくトンネルの中で行われます。彼方に出口が見えるトンネルの闇(暗黒の背景!)を背負う小林から、キャメラは切り返して、トンネル外の明るさを背景にした、白い和服とパラソルの新珠の顔をスクリーンいっぱいに捉えます(彼女の白い顔がこれまでにない比率でスクリーンを占め、それは圧倒された観客の心に、いずれも微量ながら恐怖と笑いを呼び起こしもするでしょう)。子供たちのためにあくまで事件を隠し通すことが、彼女の一貫した願いです。しかし小林は翌朝自首するとすでに心を決めています。そして暗黒の空に花火が上がり、絶え間ない侵入者としての爆発音が響き、見上げる子供たちの顏が明るく照らし出されるとき、新珠も心を決めるのです。 (註1)この映画の脚本と完成したフィルムの違いについては、藤井仁子の興味深い指摘があります。殺人の行なわれた部屋の持主である草笛光子が被害者の葬儀の席で、ベッド・サイドの花瓶にこんなものが入っていたと三橋達也にペンダントを渡す場面があり、また、小林が新珠に殺人を告白するとき、情事の前に愛人の首から外した装飾品を花瓶に入れるさまが〈ナラタージュ〉として観客の前に展開されるのですが、藤井によれば、脚本ではこのあと新珠は三橋に電話して、確かにペンダントが花瓶から見つかったとの答えを得、夫の告白が真実だという逃れられぬ事実に直面することになっていたそうです。 しかし成瀬はこの部分を省略してしまったので、唯一の物的証拠は宙に浮き、わざわざそれを花瓶に入れることも意味を持たなくなり、草笛が三橋にそれを渡す場面ともども、物語との緊密な連携を失ったことになります。 (註2)『乱れ雲』の警報機に関しては以下で触れています。 http://kaorusz.exblog.jp/pg/blog_view.asp?srl=3589621&nid=kaorusz ★参考文献は最後に載せます。 ■プロフィール■ (すずき・かおる)またしても大晦日に原稿を書いています(今年はコミケも見送ったのに~)。ジェンダーフリー・バッシング言説の愚かしさと、近代建築の破壊と、再開発という名の止まない町殺しに、怒り、呆れる一年でしたが、これは新年へ持ち越さざるを得ません。 最新の信じがたい提灯持ち記事です。↓http://www.sakigake.jp/servlet/SKNEWS.Column.hokuto?newsid=20051228ax 鈴木のブログ「ロワジール館別館」は、http://kaoruSZ.exblog.jp/ です。 なお、近代建築の破壊と保存については、最近書いたエントリーが http://kaorusz.exblog.jp/i10 にあります。
by kuronekobousyu
| 2006-01-01 01:00
| 57号
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